松平春嶽(福井藩第16代藩主)と橋本佐内など側近たちがなした事

歴史人物

福井藩第16代藩主の松平春嶽は幕末にあって、英明な君主として知られています。また、その側近も、橋本佐内、横井小楠などを登用し藩政改革と、幕政改革に活躍したと知られています。

実際はどうだったのでしょうか。その実態について述べていきます。

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松平春嶽(福井藩第16代藩主)の生涯

文政11年9月2日(1828年10月10日)江戸城内の田安屋敷に生まれる。

天保9年(1838年)越前松平家の家督を継承。11歳で福井藩主となる。

天保10年(1839年)全藩士の俸禄3年間半減と、藩主自身の出費5年削減を打ち出す。

天保11年(1840年)家老・松平主馬を罷免する。

翻訳機関洋学所の設置や軍制改革などの藩政改革を行う。

嘉永6年(1853年)、ペリー率いる艦隊来航に際して、攘夷から開国派に転じる。

一橋徳川家当主の慶喜を将軍に、春嶽を大老とする運動が行われる。

安政5年(1858年)隠居させられ、謹慎の処罰を受けた。

文久2年(1862年)政事総裁職に就任する。

将軍・徳川家茂の上洛など公武合体政策を推進する(文久の改革)。

熊本藩出身の横井小楠を政治顧問に迎える。

文久3年(1863年)逼塞処分および政事総裁職を罷免される。

文久3年(1863年)参預となる。

元治元年京都守護職に就任する。職を退く。

慶応3年(1868年)朝廷より議定に任命される。

内国事務総督、民部官知事、民部卿、大蔵卿などを歴任する。

明治3年(1870年)に政務を退く。

明治23年(1890年)小石川の自邸で死去、享年63。

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松平春嶽(福井藩第16代藩主)と橋本佐内、横井小南など側近たちがなしたこと。

藩政改革

先代から藩政にあたっていた保守派から革新派への人事入れ替えでした。同時に、鈴木主税、村田氏寿、三岡八郎(のちの由利公正)ら気鋭の人材を取り立てます。

藩主就任の翌年に、全藩士の俸給を3年間半減し、藩主手許金を1000両から500両に減額します。また、食事は常に一汁一菜以下と定めます。

兵備増強&兵制刷新:西洋式砲術や兵制を取り入れ、野戦砲、洋式銃の製造に着手します。

種痘法導入&種痘館設立:イギリスで確立された種痘について、医師・笠原白翁の進言を受け、種痘法の導入を決定しました。

殖産興業策の振興&藩専売制の廃止:藩による専売制度は、藩が生産者から一括して生産物を買い取るものですが、生産者にとっては利益にならないため、各地でその弊害が大きくなってきました。この専売制度を廃止しました。

藩校「明道館」創設&教学刷新:水戸藩の「弘道館」を手本としつつ開校にこぎ着けます。

春嶽と家臣は悩み、話し合った末、若き俊才・橋本左内を起用することにしました。

 

将軍後継問題

春嶽と彼の側近はこの困難な国の在り方について、検討した結果次のような体制が望ましいと考えるようになりました。

将軍:一橋慶喜

国内事務宰相:松平春嶽・島津斉彬・徳川斉昭

外国事務宰相:鍋島閑叟

その他官僚:川路聖謨・永井尚志・岩瀬忠震

これによって、将軍家定の後継はこのような体制を目指すことになり、将軍後継者問題の起こる要因となってきたのです。

でも、結果的にはこの試みは失敗し、安政の大獄により隠居することになります。

挙藩上京計画

文久3年(1863年)横井小楠主導で進められてきた「挙藩上京計画」が福井城中に全藩士を集めて発表された。

この計画は、松平春嶽及び藩主の松平茂昭を筆頭に、福井藩の動員できる最大限の兵力を使って、福井藩をかえりみることなく京都を制圧するものです。

すなわち、朝廷、幕府どちらにも与せずに、制圧した後は、広く会議をもって方針を決定し改革を進めていこうとするものです。

混乱した政局に対して武力で鎮圧するもので、いわばクーデターのようなものと考えられるでしょう。薩摩藩、熊本藩、加賀藩にもある程度通じていて、天皇にも話が上がっていたようですが、

計画が明らかになるにつれ、あちこちから反対が出て頓挫してしまいます。そして8月には中止になってしまいます。これも、計画倒れです。

 

参預会議

文久3年(1963年)の禁門の変の後の長州藩の処遇と横浜港封鎖問題を検討する参預会議が設けられました。構成員は次の通りです。

徳川慶喜(一橋徳川家当主、将軍後見職)、松平春嶽(越前藩前藩主、前政事総裁職)、

山内容堂(土佐藩前藩主)、伊達宗城(宇和島藩前藩主)、

松平容保(会津藩主、京都守護職)、島津久光(薩摩藩主島津茂久の父)

参預会議については、意見の一致がなかなか見られず、特に徳川慶喜と島津久光との関係が折り合いがつかず、結局数か月で崩壊してしまいます。

どうしても不信感がぬぐえないのでしょう。徳川慶喜も島津久光も個性が強くてうまくいかず。松平春嶽は調整に入るだけという感じだったようです。そういう意味では失敗だったようです。

 

四侯会議

慶応3年(1867年)、島津久光が送った西郷隆盛に促された前土佐藩主・山内容堂、前伊予宇和島藩主・伊達宗城が相次いで上京。当時京都に居た春嶽とこの四者で四侯会議が開かれた。

この合議制により、幕府の権威を縮小し、朝廷および雄藩連合による合議をもってこれに代えようと久光は画策していた。

第1回の会合は5月4日(6月6日)に京都の越前藩邸で開かれ、以降2週間余の間に徹夜も含めて8度会談は開かれた。

朝廷関係者、一橋慶喜らを交えた会議では、兵庫開港や長州藩の処分について話し合われた。この会議の失敗以降、薩摩藩は強硬な倒幕側へ傾いた。

これも、やはり失敗となります。

 

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松平春嶽(福井藩第16代藩主)と橋本佐内など側近たちがなしたことのまとめ

幕末の賢侯とたたえられた松平春嶽でしたが、確かに藩内の改革についてはうまくいったと思います。しかしながら、幕府改革については、残念ながら力及ばずといったところでしょう。

何度も主要な会議の構成員となっていても、徳川慶喜と薩摩藩をうまくまとめることができず、結果として、薩摩藩が討幕に舵を切ってしまうことになってしまいました。これも藩の実力かも知れません。

維新後は明治政府で一定の処遇は受けましたが、とても政権の中枢とはいかなかったようです。

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