今からおよそ180年前のことです。長い皇室の歴史の中での数少ないスキャンダル、駆け落ち事件が起こりました。
伏見宮貞敬親王の第11女である隆子女王(たかこにょおう)、通称、幾佐宮(きさのみや)が出奔する事件が起きています。この内容を中心に紹介します。
隆子女王出奔事件はどのように起こったのでしょうか
隆子女王は1818年(文化15年)に伏見宮貞敬親王の11女として生まれます。
1841年(天保12年)当時23歳の隆子女王は伏見宮の御殿から乳母とともに出奔するという事件になります。行き先が見つからないため、伏見宮家では京都所司代に失踪届を出すなど大騒ぎになるわけです。
そして失踪後から17日後の旧10月29日に明石で発見され京に連れ戻されます。
問題なのは、その時同行していたのが、2歳年上の甥で、系譜上は異母兄にあたる勸修寺門跡済範(さいはん)入道親王であったことです。いわゆる駆け落ち事件になってしまいます。
同行していた済範入道親王とはどういう方でしたのでしょうか
1816年(文化13年)伏見宮邦家親王の第一王子として生まれますが、理由は不明なのですが、祖父の伏見宮貞敬親王の第八王子とされています。
1817年勸修寺を相続し、1823年光格上皇の猶子となり、翌年親王宣言、出家して済範入道親王と称していました。
晃親王の玄孫の深澤光佐子氏の著書『明治天皇が最も頼りにした山階宮晃親王』によると、晃親王は3歳頃には勧修寺に移り住んだが、家に帰りたいとぐずりるので、側近たちが「書院前の木にぼた餅の花が咲きます」と言って、後日梅の木に必死に餅をつけたとのこと。今も残る臥龍の老梅のことだそうです。 pic.twitter.com/BNhHZkW4c8
— なぎさ (@nagisanoyuki) November 13, 2020
この出奔事件の結果はどのようになったのでしょうか
時の仁孝天皇がこの事件について非常にお怒りのため、次のような厳しい処分が下されました。
済範入道親王の処分はどのようだったか
済範入道親王については、翌年、光格天皇の猶子、二品親王、勸修寺門跡の地位を停止させられます。伏見宮家からも追放され、東寺での厳重蟄居となります。
そして、この処分は、14年後の1856年(安政3年)まで続くことになります。26歳から14年間ですから出たときには40歳になっています。大変な処分でした。
隆子女王の処分はどのようだったか
隆子女王は出家させられて、瑞龍寺に生涯お預かりの処分となります。18年間そこで過ごし、1860年(万延元年)病気のため42歳で亡くなります。
とても厳しい処分ですよね。それでも、男性の方が先に許されるのは気の毒な感じがします。
さらに、隆子女王の異母兄であり、済範入道親王の実父である伏見宮邦家親王も閉門処分となっています。
仁孝天皇は本当に怒っていたのですね。江戸時代のことですからこんなこともあったのでしょう。仁孝天皇は1846年に崩御しておりますが、処分はその後も続いて孝明天皇の時代になっているのですね。
それでも済範入道親王は謹慎処分後はどのようにしていたのでしょうか、隆子女王と連絡は取れたのでしょうか。そこら辺のところは興味がありますが、資料が見つからないのでこの程度にしておきます。
解放後の済範入道親王は思わぬことで朝廷に復帰する
当時の宮中は、孝明天皇が頑迷な攘夷論者であったため、また、孝明天皇に近い存在だった中川宮も同じような感じでした。
このため、開国に軸足を向け始め朝廷に影響力を持とうとしていた薩摩藩は朝廷に対してつかみどころがなく、苦労していたようです。
そんな時に、在京の薩摩藩の藩士から、罪を受けて謹慎処分になっているが、外国に対してアレルギーがなく、開国についても前向きな王子がいるという情報が持たされます。
そして、薩摩藩は積極的に済範入道親王との関係を持つため、足しげく通うことになり、当人の資質を見極め孝明天皇とのパイプ役になるかどうかを考えます。
こんなところ、薩摩藩もなかなかインテリジェンスとしては優れていますね。
済範入道親王は山階宮として朝廷に復帰
薩摩藩島津久光は、越前藩主松平春嶽、宇和島藩主伊達宗城に働きかけ、親王の身分回復、還俗を朝廷に働きかけます。
孝明天皇も最初は渋っていましたが、大藩の申し入れを考慮して受け入れることになります。
1864年済範入道親王は孝明天皇の猶子となり山階宮晃親王として朝廷に復帰し、国事御用掛に任じられます。
山階宮再び孝明天皇の怒りに触れて蟄居処分に
ところが、しばらくして問題が発生します。第二次長州征伐の中止をめぐって、朝廷内の公卿が参内する事件が起こります。
いわゆる「廷臣二十二諸侯列参事件」と言われているものです。
幕府協調路線の孝明天皇はこの講義に対して反逆行為として怒り、22名の蟄居を命ずることになります。
実は、山階宮はこの抗議活動に参加していなかったのですが、背後で関与したとされて、同様に蟄居処分となってしまいます。
この処分は孝明天皇が亡くなる2か月後まで続くことになります。
孝明天皇崩御、明治天皇の即位で再度の政界復帰
孝明天皇が崩御されると、事態は大きく変わってきます。いわゆる海外事情が大切となったため、1867年に山階宮は蟄居を解かれて、1868年には外国事務総督という重職に任じられることとなります。
当時外国人に対してアレルギーがない人が山階宮しかいなかった事情もありますが、海外関係に明るく、明治天皇からも絶大な信頼が寄せられていたようです。
主には外国とのトラブル処理で、有名なところでは、フランス水兵との乱闘である堺事件の後始末のためフランス艦に謝罪に出向いたりしています。
そして、しばらくして明治政府からは退いてしまい、隠居願を出します。ようやく明治10年に引退が認められ、京都に帰り、そこで1898年(明治31年)に亡くなっています。
山階宮とは初代山階宮の晃親王のこと
#青天を衝け pic.twitter.com/li942Q7B9v— ハヤブサ@シェレンベルク男爵 (@Schellenberg_22) May 23, 2021
180年前の皇室の駆け落ち事件の顛末は?のまとめ
隆子女王出奔事件から始まって山階宮の成立までを解説してきました。最初の駆け落ち事件からだんだん話は逸れて、山階宮の方に行ってしまいましたが、ご容赦ください。
江戸時代の出来事になりますから、駆け落ち事件となると、今と違って相当厳しい処分となってしまいました。
山階宮晃親王は京都に戻ったとき60代でしたがその後20年間京都にとどまり、京都の復興に努力されたと言います。山階宮家は3代続いた後に断絶することになります。
なお、山階宮で有名な山階鳥類研究所は山階宮第二代の菊磨王の第二王子芳磨王が創設したものです。現在は秋篠宮文仁親王が総裁に就任されております。
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