元明天皇とはどんな女帝?平城京への遷都以外の業績は何?

歴史人物

元明天皇は平城京に遷都した第43代の天皇ですが、名前は教科書に載っていますが、女帝であることを知っている人は少ないと思います。

元明天皇はどんな経緯で天皇に即位し、平城京遷都の他にどのような事業をおこなったか、そのための体制をどう作ったかを説明します。

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阿部皇女(元明天皇)の家族関係、即位までは

阿部皇女(元明天皇)は斉明天皇7年(661年)に生まれました。天智天皇の皇女で母は蘇我倉山田石川麻呂の娘姪郎(めいのいらつめ)です。

第41代の持統天皇とほとんど同じですが、持統天皇の母の遠智娘(おちのいらつめ)の妹にあたります。持統天皇の叔母さんになるわけです。

天武天皇8年(679年)に一歳年下の草壁皇子と結婚します。この草壁皇子は持統天皇の息子ですよね。夫・草壁皇子は天武天皇10年(681年)天武天皇の皇太子になります。

草壁皇子は、阿部皇女との間に、天武天皇12年(683年)軽皇子をもうけます。

ここまでは順調でした。しかし、持統天皇3年(689年)夫の草壁皇子が亡くなってしまいます。そして、持統天皇の治世が続いて、文武元年(697年)軽皇子が文武天皇として即位します。

阿部皇女は皇太妃となります。ここまで持統天皇は良く続きました。

しかし、慶雲4年(707年)文武天皇が病死してしまいます。まだ25歳でした。

残された文武天皇には首皇子がいたが、まだ幼いためとても皇位につくことはできません。今と違い天皇になるにはそれなりの重みが必要です。

そこで中継ぎとして、母親である阿部皇女が即位することになりました。これが第43代の天皇である元明天皇の誕生です。

持統天皇と同じパターン、すなわち早世した息子の代わりに孫が成人するまで母親が天皇となる、であることがわかります。

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元明天皇が治世中になした事は何

このように持統天皇と同じパターンではありますが、持統天皇のように己の意志で道を開いて言った感じはしません。

文武天皇の治世の初期は持統天皇が実質的に政を仕切っていました。その間に、官僚機構も整備されてきております。特に、元明天皇になってからの藤原不比等の活躍が目立っています。

和同開珎を鋳造させました

慶雲5年(708年)武蔵の国より和同が献じられたので、和同に開眼し、和同開珎を鋳造させました。

平城京に遷都にしました

和銅3年(710年)藤原京から平城京に遷都します。これは教科書でも有名ですから、みんな知っていることでしょう。

古事記・風土記の編纂を命じました

和銅5年(712年)天武天皇からの勅令であった古事記を献上させました。また翌年には風土記の編纂を詔勅しました。

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元明天皇はどのように譲位したのでしょう

和銅8年(715年)自分の老いを理由に譲位することとしました。まだ、54歳ですのでそれほど老いているわけではありませんが、個人差によるものでしょうか。

孫の首皇子はまだ若いので、文武天皇の姉にあたる氷高皇女に皇位を譲ります。氷高皇女は35歳ぐらいですからちょうど良い年周りになるはずです。第44代元正天皇の誕生です。

元明天皇は太上天皇となります。女性同士の皇位継承は後にも先にもこの一例だけです。

養老5年(721年)病により崩御しました。宝算61です。

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元明天皇の治世を支えたのは藤原不比等です

元明天皇の治世を支えた、藤原不比等について解説しておきます。

藤原不比等は中臣鎌足の次男にあたり、斉明天皇5年(659年)に生まれています。元明天皇より2歳年上になります。

父の鎌足は11歳の時に亡くなってしまいます。父親は大友皇子に近い関係にありましたが、壬申の乱のときにはなくなっていました。

不比等自身もまだ13歳でしたので、天武天皇の治世になって直接処罰を受けることがなかったのは幸いでした。しかし確たる後ろ盾がないため、下級官人から積み上げていったようです。そういう意味では苦労したようです。

天武天皇の後期になると、草壁皇子に仕えるようになります。転機はこんなところから訪れたようです。

持統3年(689年)には歴史書に出てきますので、次第に登用されていったようです。

文武天皇の治世に入ると、草壁皇子の息子軽皇子の擁立に功績がありだんだん世に出てきます。大宝律令編纂にも中心的なかかわりを持つようになります。

そして後の妻となる元明天皇付き女官の橘三千代の力添えにより、娘の藤原宮子が天皇の夫人となり首皇子(聖武天皇)が生まれます。更に、橘三千代との娘光明子を嫁がせます。

このように元明天皇の治世で力をつけていき、実質的に元明天皇を支えていました。そして、後で花開く藤原氏の基礎を作った人です。

しかし、元明天皇の譲位後5年ほどで亡くなっています。

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元明天皇とはどんな女帝のまとめ

四人目の女帝にあたる元明天皇の即位の経緯、家族関係、事業を解説しました。僅か在位8年ほどですが、その割には平城京遷都など大事業を行っています。

しかし、こうして女帝の事業を追いかけていきますと、時代を経るごとにだんだん人間的になってきます。

また、元明天皇に至っては、これまでの女帝に見られるような、強烈な意志というものが感じられなくなりました。

確かに、孫が成人になるまで、組織を維持するのはそれだけで大変なのでしょうかが、それなりに官僚機構が育ってきたのではないでしょうか。

そのなかで、下級官僚から身を立てて元明天皇の治世を支えた藤原不比等の功績も大きいのではなかったでしょうか。

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