北里柴三郎は日本の細菌学の父として知られており、ペスト菌の発見、破傷風の治療法開発など大変な業績を上げてドイツから帰国します。
しかし日本では様々なトラブルから受け入れらません。その時に手を差し伸べたのが福沢諭吉です。一体、何があって、福沢はどのように支えたのでしょうか。
次期千円札と現一万円札の主人公の関係を解き明かします。
北里柴三郎がドイツ留学でどの様な活躍をしたのでしょうか
北里柴三郎は31歳で東京医学校を卒業し、内務省衛生局へ就職します。その後1885年(明治18年)ドイツのベルリン大学に留学します。
そしてドイツでコッホと出会い細菌学の世界で世界的な業績を上げることになるのです。
1889年(明治22年)世界で初めて破傷風菌だけをとり出す純粋培養法に成功します。
1890年(明治23年)破傷風菌の抗毒素を発見し、血清療法を開発します。
血清療法をジフテリアに応用し、第1回ノーベル賞の候補に挙がります。
このようなことから、各国から招待が届きますが、1892年(明治25年)日本に帰国します。
日本でも、これだけの業績を上げたのですから、自分の研究が続けられると思って帰国したのだと思います。しかしながら、実際はそうではなかったのです。
日本で北里柴三郎を受け入れてくれるところはほとんどなかったのです。
北里柴三郎(1852 – 1931)。細菌学者。ドイツに留学、コッホのもとで学び、1889年に破傷風菌の純粋培養に成功、翌年にはベーリングと共にジフテリアの血清療法を発表した。帰国後、北里研究所を創立。ほか、ペスト菌を発見した。 pic.twitter.com/klJWwzjm1D
— 肖像画bot(試験運用中) (@botportrait) August 26, 2021
北里柴三郎のトラブルの原因は何だったのでしょうか
北里柴三郎は学問的に純粋な人だったようで、決めたことは妥協しない。上司と言えども自分の信念を曲げないというところがあったようです。
今の忖度とは真逆の世界です。そんなことがあって、学問上のトラブルは結構ありました。弟子からも雷親父と言われているようですから。
大きな問題としては脚気の原因についてのトラブルがあります。1885年東大教授の緒方正規が脚気の原因を細菌とする説を発表します。
これに対して、北里は脚気菌の説を否定して対立してしまいます。緒方正規はもともと東京医学校でも同年にあたり、北里のドイツ留学の恩人でもあります。実は個人的には因縁は全くなかったようですが、東大関係者からは「恩知らず」と言われたり、何かと目の敵にされたようです。
このため、日本の各研究機関、大学も何かと東大との関係を悪くすることを恐れて、北里を受け入れるのに躊躇していたようです。
また、この頃、森鴎外も脚気を細菌が原因として取り組んでいたこともあり、何かと北里には批判的となっております。
1894年(明治27年)に北里は香港に派遣されペスト菌を発見する業績を上げますが、森鴎外はこれについて批判的な記事を展開しています。
#心に刻む風景 の #北里柴三郎 編の初回、早速外国の写真で、 #ベルリン のテレビ塔も。旧東独が体制を誇示して建て、私には西ベルリンの各所からも見えた。
柴三郎の留学先のベルリン大学近くの塔も当然視野に。
満州事変勃発3ヶ月前に亡くなった柴三郎は、元留学先の14年後の東西分断を予想できた? pic.twitter.com/OZ4dyheBwb— 地図フリーク (@kz_tan1) August 18, 2021
福沢諭吉はどのように北里柴三郎を支援したのか
ドイツで大きな研究業績を上げた北里柴三郎をどこも受け入れないことに憂慮した、福沢諭吉は全面的に協力を申し入れます。
もともと福沢は在野での活動を中心においていましたので、このようなマインドになったのでしょう。
私立伝染病研究所を設立して北里柴三郎を受け入れる
1892年(明治25年)「私立伝染病研究所」を芝公園内に設立して、の所長に迎えることになります。また、福沢諭吉は適塾塾頭の後任であった大日本私立衛生会の副会頭長与専斎に働きかけ財政支援を引き出すこともしております。
その後、芝公園の伝染病研究所は手狭になったので、芝区愛宕町の内務省用地を払い下げてもらいそこに移転することになります。
そこでも問題が発生します。
住民からの移転反対運動への福沢流の対処
東大総長渡辺洪基をはじめとする近隣の住民から伝染病研究所の移転について不安の声が上がり、やがて反対運動へと発展します。
その時の渡辺東大総長が以前のもめ事と繋がっているかどうかよくわかりませんが、今ではよくありそうな事件ですよね。
ここからがおもしろいのです。福沢諭吉はその伝染病研究所の隣接地に自分の次男の自宅を建てて、自分の息子も住まわせているから大丈夫だと支援運動を展開しました。
帝国議会でも国が伝染病研究所を支援すべきという決議を挙げて、国から補助金を出すようにもしています。ここらについて福沢が関与したかどうかは定かではありません。
私立伝染病研究所は内務省管轄の「国立伝染病研究所」へ
1899年(明治32年)内務省所管の研究所となった後、1906年(明治39年)に白銀台に移転します。施設も伝染病研究所、血清薬院、病苗製造所の3機関から構成されるようになりました。
ところがこれで安泰とはいかなかったのです。
1914年(大正3年)政府から突然、伝染病研究所を文部省に移管し東大の組織とすることが決定されます。この背景はどのように動いたのかは想像できませんが、東大側の策謀と思われても仕方がないでしょう。
北里柴三郎伝染病研究所を辞任する
北里柴三郎は大いに反発しますがどうにもなりません。ここがすごいと思いますが、直ぐに研究所を辞任し、私財を投じて「私立北里研究所」を設立します。
この時、伝染病研究所からかなりの研究者が一緒に退職しています。これが今の学校法人北里研究所、北里大学の母体となるものです。
そして狂犬病、インフルエンザなどの血清開発に取り組んでいます。
北里柴三郎はどんな理由でどの様に福沢諭吉に支えられたのか?のまとめ
新千円札の肖像となる北里柴三郎のドイツ帰国後の状況を解説しましたが、いかにも日本的な争いですね。こんな時に、政府から距離を置いた福沢諭吉があらわれて本当に助かったと思います。
また、1914年の文部省移管にあたっては、その後赤痢菌の権威となる志賀潔も一緒に退職しています。そういう意味では雷親父ですが、弟子には慕われたのでしょう。
後日、福沢諭吉の死後になりますが、慶應義塾大学医学科が開設されたとき、北里柴三郎は福沢諭吉の恩義に報いるため、医科学長に就任しております。そして北里研究所の研究者を派遣したそうです。
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