岩倉具視はどうして幕末の5年間を岩倉村で蟄居することになったか

歴史人物

岩倉具視と言えば維新の五傑の一人として数えられております。下級の貴族の生まれですが、朝廷を討幕にもっていった首謀者とも言われています。

しかしながら、岩倉具視は1862年から1867年までは京都の北にある岩倉村に蟄居して表舞台には出てきておりません。どうして謹慎になったのか、そしてどのように活動を行ったかを解説していきます。

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岩倉具視は失脚するまでは幕府との協調を軸に活動していた

岩倉具視が表舞台で活躍するようになるのは、1858年(安政5年)堀田正睦が日米修好通商条約の勅許を得るために上京した時からです。

この時は、大部分の公卿と同じように反対の立場で、関白九条尚忠が条約の議案を出したところ、88名の公家が抗議の座り込みをしたと言われる事件です。これを廷臣八十八卿列参事件と言われています。

このため、孝明天皇の勅許を得ることができませんでした。岩倉具視の最初の政治活動と言われています。

基本姿勢は単純攘夷ではなく、欧米国港に使節を派遣する。とか、あくまでも幕府の国防に期待していたようです。

安政の大獄が朝廷に及ぶのを回避する

日米通商修好条約は井伊直弼が独断で締結してしまい、孝明天皇は激怒することになります。幕府はこの反対者に安政の大獄と言われている弾圧を開始します。

これを危惧した岩倉具視は京都所司代と関係を保ち、朝廷に被害が及ばないよう努力します。これによって岩倉は幕府寄りとの評価がされるようになります。

和宮降嫁を機会に朝廷の権威を高める活動を行う

安政の大獄が終わり、公武合体論が持ち上がってきます。この時、岩倉は「和宮御降嫁に関する上申書」を提出しています。

これは、幕府が人心の離れているのを感じて、朝廷の権威を借りようとするものであるのとの認識を示しています。これにより朝廷の権威の下で政治の安定を図るようにするもので、目指すところは政治的な決定は朝廷、執行は幕府という体制であること。幕府が条約の引き戻しをする約束をするのであれば、この縁組を進めるべきとした内容です。

とてもバランスの取れた内容ですよね。京都に居ながらここまで見通すことができたとは立派なものです。結果として幕府は7年から10年以内の交渉、条約破棄を約束することになります。

和宮降嫁に随行するときも勅使として、江戸に赴き、幕府が孝明天皇の廃帝を企んでいるとのうわさがあるがその真偽をただすことにします。

そして、前代未聞の将軍による誓書を勝ち取ることとなります。まさに、岩倉具視の絶頂の時でしょう。それでもこれは朝廷の権威を高める一点に集中していると考えれば理解できますね。

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尊皇攘夷が行き過ぎたおかげで岩倉具視の失脚につながる

1861年(文久元年)長州藩主毛利慶親が航海遠略策を孝明天皇に献策します。この内容も公武合体、現実的開国、将来の攘夷でその時の常識的な内容が描いてあります。

翌1862年(文久2年)に孝明天皇は、10年後の攘夷決行を公表しており、幕府が行わないなら、自らが親政を実施して攘夷を行うと宣言します。これも、当初の内容ですから問題ないはずです。

更にややこしくなるのは、島津久光が長州藩の動きを警戒して、京に乗り込み、京の守護を朝廷から命じられるようになったことです。

今まで京都所司代という役所が幕府機関にありながら、朝廷の守護を朝廷が決めてしまうことになります。このように、幕府の行政の内容を次々と否定していくことになります。

こんなことから、尊王攘夷運動は各地で広がっていき、当初のように10年間は幕府の政策を見守るとしていたものから、段々、幕府を当てにせずという動きになってきます。

世の中の動きとは恐ろしいものです、前提条件の公武合体、緩やかな開国、10年後の攘夷が吹っ飛んでしまうことになります。

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岩倉具視は排斥から謹慎蟄居の道へ

こんな動きの中ですから、幕府と協調的な立場であった人たちは次々に排除されることとなります。岩倉具視はまず孝明天皇の近習を辞めさせられます

つぎに、幕府にこびへつらう「四奸二嬪」として弾劾されるようになります。最後は孝明天皇にまで疑われる始末です。

ついに、蟄居処分、辞官、出家と朝廷を去ることになります。和宮降嫁に際し将軍の書付を取って得意の絶頂にあった時からたったの1年です。

この頃の岩倉は本当に悔しかったことでしょう。

まだまだ続きます。京都から去らなければ天誅を下すとまで脅されることになります。

このため、居場所を西賀茂の霊源寺、洛西の西芳寺に移しますが。洛中からの追放令まで出てしまう始末です。

このため、長男の具綱が岩倉村に住居を用意しそこに住むことになります。なんとそこから5年間の蟄居生活が始まるわけです。

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岩倉村で謹慎中の岩倉具視はどのようにしていたか

元治元年(1864年)禁門の変が発生し京都の尊王攘夷派が一掃されましたが、岩倉には赦免の連絡はありませんでした。

どうやら、孝明天皇の御機嫌も相当損ねたのではないでしょうか。また、公家の中でもやはり出る杭は打たれるということで、出身が低いだけに相当妬まれていたのではないでしょうか。

この頃から、薩摩藩、朝廷の中の有志が訪ねてくるようになり、意見書、手紙などを書いて活動を始めているようです。今でいうリモートワークですね。

この頃から、姿勢の変化が現れてきます。やはり、訪ねてくる薩摩藩と意見の方向があってくるようになります。

慶応2年(1866年)の第二次長州征伐においても、長州征伐の解体を提唱しています。これも薩摩藩と同じ考え方です。

薩摩藩に影響を受けたのか、それとも、考えた末に方向転換したかは不明ですが、この頃から、朝廷内の親幕府派の中川宮などを批判するようにもなります。

慶応3年(1867年)孝明天皇が崩御され、明治天皇が即位されますが、この大赦でも岩倉の赦免はされず、11月になるまで蟄居が続きます。蟄居が解けるのは大政奉還が終わった後になります。

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岩倉具視はどうして幕末の5年間を岩倉村に蟄居していたかのまとめ

岩倉具視は最初から反幕府だと思っていましたが、謹慎処分の前は現実的な路線を歩んでいたことは良い気づきになりました。新幕府というよりは朝廷の権威を如何に高めるかということに努力していたのでしょう。

1867年(慶応3年)11月に復帰してからは、一貫して反幕府の立場をとるようになります。反徳川慶喜と言ったほうが良いかもしれませんし、ほとんど薩摩藩に近いと考えたほうでしょう。

辞官納地、王政復古の大号令などの仕掛けを作っていきます。そして、新政府の首脳として活躍することになるのです。

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