渋沢栄一が日本の福祉に残した偉大な足跡:東京養育院の危機を救った物語

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突然ですが、あなたは渋沢栄一という人物をご存知でしょうか? 「日本資本主義の父」として知られる彼は、数々の企業や経済団体の設立に尽力しただけでなく、教育や医療、そして福祉といった社会貢献事業にも深く関わりました。その中でも、彼が半世紀以上にわたり情熱を注ぎ、自らの「生涯の仕事」とまで呼んだのが、東京養育院の運営でした。

しかし、この養育院は明治時代に「廃止」という未曽有の危機に直面します。一体なぜ、このような重要な施設が存続の危機に瀕したのでしょうか? そして、渋沢栄一はどのような独創的な手腕でこの困難を乗り越え、多くの弱い立場の人々を救うことができたのでしょうか?

この記事では、東京養育院の設立から廃止の危機、そして渋沢栄一がどのようにしてその存続を守り抜いたのかを、初めてこの分野に触れる方にも分かりやすく、丁寧な言葉で解説していきます。彼の社会福祉への深い思いと、現代にも通じるその「合本主義」の精神が、いかにして危機を乗り越える力となったのかを、一緒にひも解いていきましょう。

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東京養育院の設立背景:困窮者支援と「七分積金」の役割

東京養育院の設立は、一見すると純粋な慈善事業に見えるかもしれません。しかし、その発端には、当時の政府が抱えていた切実な「事情」がありました。

明治初期の社会混乱と外交上の懸念

明治時代に入り、江戸時代の価値観や社会制度が大きく変化する中で、都市部には仕事や住む場所を失った人々があふれていました。特に、1872年(明治5年)にロシア皇太子アレクセイ・アレクサンドロヴィチ大公が日本を訪問する際、政府は大きな懸念を抱きました。帝都の街中にホームレスが多数いる状況は、国際的な外交上好ましくないと考えられたのです。

そこで政府は、これらの困窮者を一時的に収容する施設の設立を急ぎます。当初は外交上の体裁を整えるという側面が強かったものの、東京府知事であった大久保一翁は、これを真に困窮した市民を救済する機会と捉え、本格的な支援施設の計画を進めました。

寛政の改革から受け継がれた「七分積金」

養育院の設立には、そのための資金が必要不可欠でした。そこで活用されたのが、江戸時代に寛政の改革の一環として町方が積み立てていた「七分積金(しちぶつみきん)」と呼ばれる資金でした。これは、町入用の節約分の7割を積み立てさせたもので、幕末期には170万両(現在の価値に換算すると数千億円ともいわれる膨大な金額)にも達していたと言われています。

明治政府はこの七分積金を接収し、社会基盤の整備に活用することを決定。その一部が東京養育院の設立資金として使われることになったのです。養育院は、七分積金という市民の互助精神から生まれた資金を背景に、日本の社会福祉の先駆けとしてその歴史をスタートさせました。

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渋沢栄一と養育院の出会い:社会貢献への目覚め

渋沢栄一は、大蔵省で日本の近代化に尽力した後、思うところあって官職を辞し、民間の実業家へと転身します。彼はほどなくして東京商法会議所(現在の東京商工会議所の前身)の設立に関与するとともに、この重要な七分積金の管理も任されることになります。

東京養育院は、この東京商法会議所の管轄下に置かれていたため、渋沢がその監督役を務めることになりました。最初は、養育院の仕事に戸惑いを感じていたようですが、「社会のため」という強い使命感から、彼はこの事業を続けます。そして、持ち前の「合本主義」の精神、つまり多くの人々の力を合わせて社会貢献をするという考え方が、この事業にぴったりと当てはまることに気づきます。

やがて、渋沢の工夫と経営手腕が導入されると、養育院の経営は順調に進むようになり、渋沢自身もこの事業に深く魅了され、生涯をかけて力を注ぐようになっていくのです。

 

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1881年の廃止危機:養育院が直面した厳しい現実

養育院の事業が順調に拡大する一方で、1881年(明治14年)頃から、その存続を疑問視する声が東京府議会で上がり始めます。現代でもよくある議論ですが、その理由は「養育院は東京府の税金で賄われているのだから無駄である」「怠けた人間を助けるだけでは何の利益にもならない」といったものでした。

東京府議会での廃止論は日増しに強まり、ついには1885年(明治18年)には東京府からの支出が止められてしまうという、養育院にとって極めて厳しい状況に追い込まれます。これは、現代の私たちで言えば、公的な支援が突然打ち切られるような事態でした。

この時、すでに養育院の事業に大きな情熱を注いでいた渋沢栄一は、このような議論に真っ向から反論します。「困窮した人々を救うことは、いわば『人道』である」と訴え、養育院の重要性を説いて回りました。また、彼は単に反対するだけでなく、養育院内部での合理化や自主努力も積極的に進めました。しかし、どれほど渋沢が個人的に資産家であっても、東京府からの公的資金が途絶えてしまっては、養育院の存続は極めて困難な状況でした。

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渋沢栄一の知恵と行動:危機を乗り越えた革新的アプローチ

絶体絶命の危機に瀕した東京養育院を救うため、渋沢栄一は彼の卓越した知性と行動力を発揮します。彼は、東京府が養育院の土地を売却したがっていることに着目し、ある画期的なアイデアを提示しました。

「七分積金」の論理と土地売却益の活用

渋沢は、養育院が建っている土地が、そもそも東京府のお金ではなく、江戸時代から町方が積み立ててきた七分積金を流用して得たものであるという事実に目を向けます。そして、「この土地の売却益は、本来、養育院に戻されるべきである」と力強く主張し、東京府との交渉を進めました。

彼の精密な計算によれば、この売却益を元手に、さらに有志からの寄付金を集めることができれば、養育院の経営は十分に可能であると試算しました。これは、計数に明るい渋沢ならではの得意技であり、彼のビジネス手腕が社会福祉事業にも応用された好例と言えるでしょう。

日本初のチャリティーバザーと「泥棒袋」

渋沢は、この方針で東京府と決着をつけ、養育院の存続を確かなものにするための資金集めに奔走します。彼はただ寄付を募るだけでなく、世間からの同情や共感を呼び起こし、より多くの人々を巻き込むための革新的な方法を考え出しました。

その一つが、日本初のチャリティーバザーです。

1884年(明治17年)頃、渋沢は西洋式の社交場として知られていた鹿鳴館で、華族や政府高官、財界の婦人たちに働きかけ、このチャリティーバザーを成功させます。これは、富裕層から広く資金を集めるための画期的な試みでした。

また、渋沢は自ら篤志家のもとを訪問し、大きなカバン(一部では「泥棒袋」と揶揄されることもあったそうです!)をどんと置き、「養育院のために」と寄付を募り、多額の資金を集めたと言われています。ここにも、たとえ少額であっても多くの人々から寄付を集めることを重視する、渋沢の「合本主義」の思想が色濃く表れています。彼は自分の経済人としてのノウハウを惜しみなく養育院の存続のために活用したのです。

これらの努力の結果、養育院は存亡の危機を免れ、その後も長きにわたり社会に貢献し続けることができました。

 

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瓜生岩子の貢献とアメ横の逸話:慈善活動の広がり

養育院の活動が全国に知られる中で、明治の偉大な慈善家である瓜生岩子(うりゅういわこ)もまた、養育院との縁がありました。彼女は、明治24年(1891年)に東京養育院に招かれ上京し、貧しい人々のために「芋飴」や「飴粕(あめかす)」の普及活動に尽力します。彼女はそれらの利用法、製造法、さらには機械の貸与まで行い、自立支援に貢献しました。

この活動の拠点の一つが、現在の上野駅前、アメ横として知られる場所だったという逸話があります。彼女がその地で「飴」に関する活動を行ったことから「アメ横」と呼ばれるようになったという説も語り継がれています。

しかし、一般的に「アメ横」の名称の由来は、第二次世界大戦後、この地域に飴を売る露店が多数集まったことや、アメリカ進駐軍の払い下げ品を扱う店が多かったことから「アメヤ横丁」や「アメリカ横丁」と呼ばれ、それが「アメ横」として定着した、という説が有力です。瓜生岩子の活動は、地域での慈善活動の象徴的な出来事として語り継がれている貴重なエピソードと言えるでしょう。

 

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渋沢栄一の生涯にわたる貢献と養育院の現在

渋沢栄一にとって東京養育院は、当初は「なぜ自分がこの仕事をやることになったのか」と戸惑いながらも始めた事業でした。しかし、彼の提唱する「合本主義」の精神と合致していたこともあり、その後は深い熱意をもって取り組むようになります。

彼は他の多くの役職を退いた後も、東京養育院の院長だけは生涯にわたって務め続け、その期間は実に50年以上に及びました。しかも、月に1回は必ず養育院に出向き、子どもたちにお菓子を持って現れたそうです。これは、渋沢にとって養育院の仕事が、自身の生きがいや励みとなる素晴らしい事業だったことの証でしょう。

この東京養育院は、1999年(平成11年)に東京都議会で条例が廃止され、その名称はなくなりました。しかし、その精神は現在の「地方独立行政法人 東京都健康長寿医療センター」として、東京都板橋区に受け継がれています。センターの敷地内には、渋沢栄一の功績を称える銅像が今も残されており、彼の社会福祉への貢献が未来へと語り継がれています。

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結び:渋沢栄一から学ぶ「共生」の精神

渋沢栄一と東京養育院の物語は、単なる歴史の出来事ではありません。それは、時代が大きく変化する中で、社会の弱い立場にいる人々に目を向け、彼らを救うためにいかに知恵と行動力を発揮すべきかを示唆するものです。

彼の「合本主義」の精神は、「富の根源は仁義道徳にある」という彼の信念に基づいています。つまり、経済的な豊かさだけを追求するのではなく、倫理観と人道に基づいた行動こそが、真の社会の発展に繋がるという考え方です。

現代社会においても、貧困、格差、高齢化といった様々な社会課題が存在します。渋沢栄一が東京養育院の危機を乗り越えたように、私たちもまた、目の前の問題に対して「自分に何ができるか」を考え、多様な人々が協力し合うことで、より良い社会を築いていくことができるはずです。

渋沢栄一の足跡は、私たちに「共生」の精神と、困難に立ち向かう勇気を与えてくれます。ぜひ、この物語を通じて、未来をより豊かにするためのヒントを見つけてみてください。

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