【教科書には載らない】徳川慶喜の波乱万丈な生涯|鳥羽伏見の戦いから趣味の隠居生活まで

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大政奉還によって江戸幕府の第15代将軍となった徳川慶喜(とくがわよしのぶ)。激動の幕末、日本が大きく変わろうとする時代に、彼は何を考え、どのように生きたのでしょうか?

この記事では、鳥羽伏見の戦いで敗北した慶喜が、なぜ命を落とすことなく恭順の道を選んだのか、そしてその後の長い人生でどのような日々を過ごしたのかを、歴史初心者の方にも分かりやすく解説していきます。

教科書だけでは知ることのできない、趣味に没頭した意外な一面や、名誉回復の裏側に隠された人々の思惑など、徳川慶喜という人物の魅力を一緒に紐解いていきましょう。

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徳川慶喜の生涯から学ぶ4つのポイント

この記事を読み進めることで、以下のことがわかります。

  • 鳥羽伏見の戦い後、徳川慶喜が恭順の道を選んだ理由と、その後の謹慎生活の真相
  • なぜ東京ではなく、静岡で暮らしたのか?その理由と、写真や弓道など多岐にわたる趣味の数々
  • 謹慎処分が意外な速さで解除され、最終的に「公爵」となるまでの名誉回復の経緯
  • 勝海舟や渋沢栄一といった旧幕臣との深い絆、そして明治政府の思惑
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鳥羽伏見の戦い、そして決断の裏側

1868年(慶応4年)、旧幕府軍と新政府軍が衝突した鳥羽伏見(とばふしみ)の戦い。この戦いに敗れた将軍・徳川慶喜は、敵前逃亡と見なされる形で大坂城を脱出し、軍艦で江戸へと戻ります。

なぜ江戸に戻り、「恭順」の道を選んだのか?

江戸へ戻った慶喜は、徹底抗戦を主張する旧幕臣たちの声に耳を傾けず、新政府軍への恭順(きょうじゅん:つつしんでしたがうこと)の姿勢を明確に示しました。この決断は、以下の2つの理由からだったと考えられています。

江戸の町を守るため
もし江戸で戦いが起これば、多くの人々が巻き込まれ、江戸の町は焼け野原になってしまいます。慶喜はそれを避けるため、恭順することで江戸城の無血開城へと導きました。
自身の命を救うため
「朝敵」とされた立場から恭順の意を示したことで、慶喜は命を落とすことなく、謹慎という処分で済まされることになりました。これは、勝海舟(かつかいしゅう)と西郷隆盛(さいごうたかもり)の会談による尽力も大きな要因でした。

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謹慎と隠居生活の始まり:水戸から静岡へ

江戸城開城後、慶喜は生まれ故郷である水戸で謹慎生活を始めます。しかし、水戸藩内での政治的な混乱を避けるため、明治政府の命により駿河(現在の静岡県)へ移住することになります。

1868年7月、慶喜は静岡の宝台院(ほうだいいん)という寺で、謹慎生活を再開しました。その後、この地で約30年にもわたる隠居生活を送ることになります。

 

意外な速さで名誉回復!謹慎生活の解除

1869年(明治2年)5月、戊辰戦争が終結すると、旧幕臣である勝海舟や大久保一翁(おおくぼいちおう)らが明治政府に働きかけ、なんとわずか1年半後の同年9月には慶喜の謹慎処分が解除されました。

明治政府は、内乱終結後に慶喜を許すことで、旧幕府勢力の不満を抑え、新政府のもとで国をまとめるという意図があったとされています。

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政治から遠ざかった「静岡時代」の素顔

謹慎が解かれた後も、慶喜は公の舞台に戻ることなく、なぜか東京ではなく静岡に留まり続けました。これには、主に2つの理由があったと考えられています。

なぜ静岡に留まり続けたのか?

  • 勝海舟の配慮説
    渋沢栄一(しぶさわえいいち)は、勝海舟が「慶喜公が東京に戻ると、様々な思惑から不愉快な目に遭う可能性がある。静かに暮らせる静岡に留まる方が良い」と配慮したと語っています。慶喜の平穏な暮らしを第一に考えた、勝の温情だったのかもしれません。
  • 慶喜自身の意志説
    慶喜自身が、旧幕府につながる人々との関わりを断ち、過去と決別したいと願っていたという説です。実際に、戊辰戦争を最後まで戦った榎本武揚(えのもとたけあき)や永井尚志(ながいなおゆき)とは、この時期に面会を断っています。

プロ級の腕前!慶喜の多彩な趣味生活

政治の世界から完全に身を引いた慶喜は、静岡で驚くほど多岐にわたる趣味の世界に没頭しました。その中には、現代にも通じる意外な趣味も含まれています。

【主な趣味一覧】

  • 写真:自分で撮影から現像まで行うプロ級の腕前でした。現代のカメラ愛好家にも引けを取らない知識と技術を持っていたようです。
  • スポーツ・娯楽:猟銃、鷹狩り、囲碁、将棋、ビリヤード、弓道、釣り、自転車など。特に自転車は、側室と一緒にサイクリングを楽しむなど、かなり熱心でした。
  • 文化・芸術:謡曲、能、小鼓、洋画など。文化人としての教養も深く、様々な分野で才能を発揮しました。

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徳川慶喜のプライベート:大所帯の大家族を率いた父親として

慶喜の人間的な魅力は、その趣味だけではありません。政治の表舞台から身を引いた彼は、一人の夫として、そして父親として、大家族の暮らしを大切にしました。

複数の妻と20人以上の子供たち

慶喜には、正室のほか、側室(妾)が4人いました。彼女たちとの間には、合計で21人もの子供(夭折した子も含む)をもうけています。静岡での隠居生活は、これら大所帯の家族を率いる、いわば「大家族のお父さん」としての側面が強かったようです。

特に、側室の新村信(しんむらのぶ)は、慶喜の晩年の暮らしを支えた重要な存在でした。慶喜は、信のことを「お信」と呼び、子供たちの世話や家の切り盛りを任せていました。政治の才能とはまた違う、家庭人としての温かい一面が垣間見えます。

子供たちへの教育熱心な姿

慶喜は、子供たちの教育にも熱心でした。特に娘たちには、外国語を学ばせたり、西洋の文化に触れさせたりと、新しい時代に合わせた教育を施しました。これは、かつてフランスから西洋式軍事教育を学んだ経験が影響しているのかもしれません。

また、慶喜は子供たちを連れて、東京の浅草や上野に遊びに行くこともありました。昔の敵地である東京でも、人目を気にせず、子供たちとの時間を楽しんでいたようです。これは、もはや過去の将軍ではなく、新しい時代を生きる一人の人間としての姿だったと言えるでしょう。

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東京移住と華々しい名誉回復

慶喜が静岡を離れ、東京に戻ったのは1897年(明治30年)、60歳を目前にした頃でした。健康不安や、子供たちの教育が主な理由でした。

明治天皇への拝謁と公爵への叙任

東京に戻った翌年、1898年(明治31年)3月には皇居に参内し、明治天皇に拝謁(はいえつ:身分の高い人に会うこと)を許されます。これは、かつての「朝敵」が正式に赦免され、国家に再び受け入れられたことを意味する、非常に重要な出来事でした。

さらに、慶喜の名誉回復は徐々に進められ、以下の表のように官位が上がっていきました。

年代 出来事
1872年(明治5年) 従四位に叙せられる
1880年(明治13年) 正二位に昇進(将軍時代と同じ官位)
1888年(明治21年) 従一位に昇進
1902年(明治35年) 公爵(こうしゃく)に叙せられる

特に、1902年の公爵叙任は、慶喜の名誉回復の集大成と言えるでしょう。これにより「徳川慶喜家」を創設し、貴族院議員として公務に復帰しました。政治の世界から身を引いたはずの慶喜が、明治政府から再び名誉を与えられたのです。

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まとめ:激動の時代を生き抜いた「最後の将軍」

徳川慶喜の生涯は、まさに波乱万丈でした。官軍の敵として命を狙われる危機を乗り越え、約30年間もの隠居生活を経て、見事に名誉を回復しました。これは、彼自身の「恭順」という賢明な身の処し方、そして勝海舟や渋沢栄一といった旧幕臣たちの尽力、さらには国内の統一を目指す明治政府の思惑が複雑に絡み合った結果と言えるでしょう。

1906年(明治39年)には、日露戦争後の凱旋軍人の慰労会で、かつて敵対した人々が一堂に会し、徳川家達が「天皇陛下万歳」、慶喜が「陸海軍万歳」、そして榎本武揚が「徳川家万歳」を唱和したという記録が残っています。このエピソードは、慶喜が辿った波乱の人生、そして明治という時代の大きな変化を象徴しているのかもしれません。

(関連情報:近代日本の礎を築いた渋沢栄一の生涯については、こちらの記事をご覧ください。)

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