幕末の黒船来航の司令官としてのマシュー・ペリーは日本では知らない人がいないくらいの有名人です。しかし名前だけは有名でも、どんな人柄とか経歴はほとんど知られていないでしょう。
ましてやあだ名なんて。いったいどういう背景で日本に来ることになったのか、また、ドラマの背景をよく知るためにも、ペリーの人生について調べてみました。
黒船来航のマシュー・ペリーの生涯は
1794年ロードアイランド州ニューポートで、アメリカ海軍大尉のクリストファー・レイモンド・ペリーの三男として生まれる。
1809年14歳でアメリカ海軍に入隊する。
1812年米英戦争に2人の兄とともに参加する。
1833年ブルックリン海軍工廠の造船所長となる。
1837年蒸気フリゲートフルトン号を建造する。
1840年海軍工廠の司令官ととなる。
1846年ミシシッピ号の艦長兼本国艦隊副司令として米墨戦争参加、後に本国艦隊の司令官に昇進する。
1852年東インド艦隊司令長官に就任、日本開国へ向けて大統領の親書を手渡すよう指令をうける。
1853年7月8日(嘉永6年6月3日)、浦賀に入港する。
1854年2月13日(嘉永7年1月16日)に旗艦サスケハナ号など7隻の軍艦を率いて横浜市の沖に迫り、3月31日(3月3日)に日米和親条約を調印した。
琉球王国とも琉米修好条約を締結した。
1855年ミシシッピ号の艦上で東インド艦隊司令長官の退任式が挙行された。
1858年3月4日ニューヨークで死去、63歳。
俺たち開講、開講ってずっと言ってるけど、もしかしたら開国の可能性もあるんじゃないか?
だってよしさんペリー好きだもんな。 pic.twitter.com/M3N6XLj0ZO— 杉杉 (@sugi_sugi_su) April 12, 2021
黒船来航の司令官マシュー・ペリーのエピソード
ペリー来航のマシュー・ペリーのエピソードをいくつか紹介します。
事業実施のためのモチベーション
日本ではペリーと言えば黒船のペリーですが、アメリカ本国ではほとんど評判になっておりません。
アメリカでは、ペリーのお兄さんのオリバー・ハザード・ペリーの方が有名だそうです。
米英戦争の最中の1813年9月のことです。
米英戦争と言ってもピンとこないでしょうが、独立戦争後のこの時期でもアメリカを舞台にイギリス+インディアンとアメリカで戦争が起こりました。
五大湖の一つのエリー湖でオリバー・ペリーが敵の船をすべて捕獲して一躍国民的英雄となりました。
今でもオリバー・ハザード・ペリーというフリゲート艦が命名されているほか、ペンシルバニア州ペリー郡の名前の由来にも載っているそうです。
アメリカの教科書にも名前が出ているようです。
そんなことから、マシュー・ペリーも大きな仕事がしたかったようですが、うまく戦果を挙げられなかったようです。
ようやく19世紀後半になって東太平洋の市場開拓、補給基地の必要性が出てきて、彼としては日本へのアプローチに意欲を燃やしていたようです。
技術開発と教育
実戦経験では運に恵まれませんでしたが、技術の面では優れた能力を発揮したようです。
1833年ブルックリン海軍工廠の造船所長となります。蒸気船の研究を精力的に行い、1837年蒸気フリゲートフルトン号を建造します。
1840年海軍工廠の司令官となり、海軍の強化策を進めると共に、士官教育にあたります。
蒸気船海軍の父(Father of the Steam Navy)、海軍教育の先駆者とされています。本当はこれだけでも十分だったんじゃないでしょうか。
その他にも注意深く次のようなこともしています。
黒船来航の航海途中で琉球から江戸湾に至る航路での風向・気圧、気温・水温、海流の流向流速を測定していた。
ペリーが出版した「ペリー艦隊日本遠征記には日本遠征時の気象観測データを用いたレッドフィールドによる太平洋の嵐の研究が含まれている。
#青天を衝け で黒船来航とのことなので、一昨年作成した黒船に参加した全戦闘艦(補給艦を除く)の来歴とその後を調べた一覧表を再掲します。
なんと全艦船が南北戦争に出動、戦没艦もあります。こんな老朽艦でも引っ張り出さざるを得ないことから、それだけ南北戦争が過酷だったことが判ります。 pic.twitter.com/Ye6hiDNAl3— むいしゅきん公爵 (@nekomyshkin) March 3, 2021
用意周到な日本研究
日本への開国要求の任務に当たっては、数々の文献にあたって勉強したようです。その中にはシーボルトの著書もあったようです。そして、日本への対応方針を決めます。
出発に先立ち国防長官ウィリアムに以下の基本計画を提出します。
・任務成功には、戦艦4隻、内3隻は蒸気船が必要である。
・日本人は書物で蒸気船を知っている可能性があるが実物を見る事で近代国家の軍事力を認識できるだろう
・中国人同様、日本人も友好より恐怖に訴える方が交渉が有利になる
・オランダの妨害が予想されるので長崎での交渉は避けるべき
とても現実的な対応です。
また、日本との交渉についても傲岸不遜な態度であったとしておりますが、彼としてはここも計算に入れての対応だったのでしょう。
どうもわざわざ神格性を持たせようと、輿に乗って移動をしていたとの記録も残っております。
こんなこともあって日米和親条約の調印もうまくいったようです。
マシュー・ペリーのあだ名は
お待たせしました。最後にあだ名を紹介しておきます。初めに良い例ですが、先にご紹介した、「蒸気船海軍の父(Father of the Steam Navy)」というのがあります。
でも、もっと本質的なのは、「熊親父」とあだ名され、傲岸不遜でドラ声の怖い提督であったようです。
黒船来航の司令官マシュー・ペリーのあだ名は?どんな人?のまとめ
黒船来航で有名なペリーですが経歴や人となりをご紹介しました。こうしてみると、実は生真面目で用意周到な準備をする人であったことがわかります。
日本に開国要求した各国の様子も研究したことでしょう。これによって新たな道を開いたこととなります。
ようやく日本開国の事業を終わり米国に帰ることになりますが、前から持病があったのでしょう、体調不良となり、艦隊とは別れて西回りで米国に戻り、最後に退官してしまいます。
ところがこのような心血を注いだ事業も、南北戦争直前の米国内ではほとんど評価されず、ついに兄を超えることはできなかったようです。
それでも何とか業績が評価され、今ではマシュー・ペリーの名前は、ルイス・アンド・クラーク級貨物弾薬補給艦第9番艦に付けられております。
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