伊達宗城(だてむねなり)は幕末にあって四賢侯と言われ、幕府内の大名間の調整に活躍した大名について解説します。
伊達宗城は藩内の殖産振興に手腕を発揮するほか、外部からの人材活用、大名間の調整に非凡な能力を発揮しました。
伊達宗城とは?幕末に四賢侯と言われ大名間の調整に活躍した大名の生涯
文政元年(1818年)旗本山口直勝の次男として江戸にて誕生。
文政10年(1827年)宇和島藩主・伊達宗紀の仮養子となる。
文政11年(1828年)宇和島藩家臣・伊達寿光の養子となる。
文政12年(1829年)藩主・宗紀の五女・貞と婚約して婿養子となる。
天保15年(1844年)藩主に就任。
安政5年(1858年)井伊直弼と将軍継嗣問題で対立。安政の大獄で隠居謹慎を命じられる。
文久3年(1863年)参預会議に参加。
慶応3年(1867年)四侯会議に参加。
慶応2年(1866年)イギリス公使ハリー・パークス宇和島訪問。
慶応3年(1867年)新政府の議定(閣僚)。
明治元年(1868年)戊辰戦争が始まると、新政府参謀を辞任。
明治2年(1869年)民部卿兼大蔵卿となる。イギリスから鉄道敷設の借款を取り付けた。
明治4年(1871年)欽差全権大臣として清の全権李鴻章と日清修好条規に調印。中央政界より引退。
🔵第13回より登場
<#青天を衝け 登場人物>
将軍継嗣問題で慶喜擁立に関わったことから、安政の大獄で隠居謹慎に処された。島津久光の公武合体運動によって政界に復帰し朝議参与に任命されるが、久光や松平春嶽らと共に開国の道を唱え、慶喜と衝突する。 pic.twitter.com/ggN6mucbfW
— 【公式】大河ドラマ「青天を衝け」 (@nhk_seiten) May 8, 2021
明治14年(1881年)ハワイ国王カラカウアを接待。
明治17年(1884年)伯爵を授けられた。
明治24年(1891年)養嗣子の宗徳が侯爵に陞爵された。
明治25年(1892年)、児島惟謙の司法官弄花事件に際して辞職を勧める役回りを任された。東京で病没した。享年75。
谷中をさらに歩くと伊達宗城の墓もあった。 pic.twitter.com/ExT8JhsDin
— さちゃぱ (@sachapa88) May 9, 2021
伊達宗城とは?幕末に四賢侯と言われ大名間の調整に活躍した大名の逸話
伊達宗城の様々な活躍につて述べていきます。
幕末にあって藩財政が良好であった原因は
どうやら、前の藩主宗紀(むねただ)も非凡な人だったようです。ご本人は98歳まで生きられた方で有名ですが、藩の財政悪化に対応するために、果敢に改革を行った人です。
結構荒っぽいこともやっていて、大阪商人からの借金を200年間無借金としたり、脅して一部分を放棄させたりしたようです。
必ずしも荒業ばかりではありません。正当なこともしています。ハゼ蝋の専売化とか塩やするめなどの特産品を保護しています。質素倹約や検知などもしています。
藩士を農学者であり兵法学者でもある佐藤信淵に入門させて農業の改良を学ばせたりしています。
佐藤信淵は、「上宇和島藩世子封事」として、宇和島藩にぴったりの殖産興業策、特産物の開発、物産の輸出を提言しました。
更に融通会所を設立して物価統制を図ることで、相当の蓄財に成功したようです。
宗城もこの政策を踏襲して殖産興業を中心に発展させます。
伊達宗城の真骨頂である人材登用、高野長英
シーボルトの弟子高野長英は天保10年(1839年)蛮社の獄で投獄された後脱獄して江戸で潜伏していたのですが、鳴滝塾時代の同門で宇和島出身の蘭方医二宮敬作の手引きで宇和島に来て宗城に庇護されました。
長英は、宗城のもとで約1年ほど潜伏、その間に兵法書など蘭学書の翻訳、砲台を作るなどして宇和島藩の兵備の洋式化に貢献します。この当時は藩は一つの国ですから、こんなこともできたのですね。
伊達宗城の真骨頂である人材登用、大村益次郎
宗城は蘭方医二宮敬作に頼み、緒方洪庵の紹介で長州の村田蔵六(大村益次郎)を200石で招聘、オランダ語の専門書を翻訳して、砲台や船を設計の研究をさせる。
和船に大砲を積んで砲撃実験を開始し、黒船に似た外輪を持つ人力の和船を取り寄せて研究させる。
どうもキーパーソンは二宮啓作のようですね。それにしても大村益次郎がこんなところで登場するとは思ってもみませんでした。
伊達宗城の真骨頂である人材登用、前原巧山
城下の何でも屋でおそろしく器用な嘉蔵(のちの前原巧山)を抜擢、蒸気機関の製作を任せました。長崎にも留学させます。
ペリー来航から3年後、日本人だけで実験的な蒸気船が完成します。純国産の蒸気船第一号と言えるでしょう。
この前原巧山は一介の傘職人です。こんな人を評判を聞いてかどうか知りませんが、取り立てて使ってしまうところが驚きです。
このおかげで、前原は武士に取り立てられ、刀を差して家に帰ったところ、周りの人がびっくりしたとのことです。
伊達宗城は大名間の調整に非凡な能力を発揮
伊達宗城はなぜか大名間の調整にかなりの能力を有しているようで、何らかの頼まれごとが入るとすぐ調整に入ってしまいます。以下にいくつか成功事例を挙げておきます。
ところが此れが高じて、例の第13代将軍家定の後継者問題にまで足を突っ込んでしまいます。これが災いして、安政の大獄により藩主を退き謹慎処分となってしまいます。
土佐藩の跡目相続
嘉永元年(1848年)7月10日土佐藩主山内豊熈(とよてる)が江戸で急死。その数か月後に新藩主も急死、残された実弟は3歳、という土佐藩断絶のピンチがおこります。
土佐藩では、新藩主が病気で隠居したことにして、分家の後の容堂を藩主にしてお家断絶を逃れようと運動を始めます。
宗城は、島津斉彬からの要請もあって、老中阿部正弘に働きかけます。このおかげで、山内容堂はめでたく藩主となることができました。
薩摩藩との関係
お由羅騒動まで起こった薩摩藩についても、宗城は、斉彬の大叔父の福岡藩主黒田斉溥らとともに老中阿部正弘を動かして斉彬父の斉興を隠居させ、斉彬の藩主着任に一役かかわることになります。
肥前鍋島藩と福岡黒田藩とのもめごとの仲裁
嘉永2年(1849年)、肥前鍋島藩と福岡黒田藩との間で砲台建設がもとでもめ事が発生します。宗城は正室が鍋島藩主の妹という関係もあり、老中阿部正弘の要請も得て円満に解決しております。
こういう大名間のもめ事に就ては、阿部正弘とも良い関係で事を運んでいたようですね。
伊達宗城とは?幕末に四賢侯と言われ大名間の調整に活躍した大名のまとめ
宇和島藩主伊達宗城の幕末の活躍を解説してきました。この方は、調整能力にたけているおかげで、新政府からもにらまれることもなく、戊辰戦争を生き抜くことができました。
ただ、さすがに戊辰戦争では、新政府についたもの、戦争がはじまるとすぐに下りてしまいます。
本家が奥州列藩同盟の盟主伊達藩ですから、公然と敵対するわけにはいかなかったのでしょう。
そんなこともあって、戊辰戦争では戦火にまみえることもなかったわけですから、結果としてよかったわけです。
明治後は大名出身者の出る幕がほとんどなかったのに、宗城だけは外国通で優れた調停能力を買われて外務大臣的役割を果たしました。
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