💡 幕末の混迷を収束に導いた「宇和島の知将」をご存知ですか?
幕末の動乱期、「酔いどれ藩主」の山内容堂、「先見の明」を持つ松平春嶽など、名だたる大名たちがしのぎを削る中、彼らと共に「幕末の四賢侯」に数えられた一人の大名がいました。
それが、宇和島藩主・伊達宗城(だて むねなり)です。宗城の最大の武器は、卓越した「人材登用」と、大名間の対立を瞬く間に鎮める「調整能力」でした。世間からは「地味」と評されがちですが、彼の決断なくして、幕末の歴史は大きく変わっていたかもしれません。
この記事では、脱獄犯の高野長英を庇護し、後の軍神・大村益次郎を見出し、さらには日本人初の蒸気船を完成させた、宗城の先見の明と豪胆なエピソードに焦点を当てます。なぜ彼だけが明治維新後も外交官として活躍できたのか?「幕末の調停王」の知恵に迫りましょう!
📜 伊達宗城の歩み:旗本から「四賢侯」へ駆け上がった生涯
伊達宗城は文政元年(1818年)、旗本の次男として江戸で誕生しました。しかし、彼は並外れた才能と運に恵まれ、複雑な養子縁組を経て、天保15年(1844年)に伊予宇和島藩の第8代藩主に就任します。その後の彼の生涯は、激動の幕末から明治維新後まで、常に日本の中心で重要な役割を果たし続けました。
伊達宗城の重要年表(歴史を動かした瞬間)
- 天保15年(1844年): 藩主就任。藩の殖産興業と軍備近代化に着手。
- 安政5年(1858年): 将軍継嗣問題で一橋慶喜を推し、大老・井伊直弼と対立。安政の大獄で隠居謹慎処分を受ける。
- 慶応3年(1867年): 新政府の議定(閣僚)に就任。四侯会議などに参加し、公議政体派として活躍。
- 明治4年(1871年): 欽差全権大臣として清の全権**李鴻章**と日清修好条規に調印。外交官としての非凡な手腕を発揮。
📺 **(大河ドラマでの描かれ方)** 2021年の大河ドラマ『青天を衝け』でも、宗城は一橋慶喜(徳川慶喜)擁立の中心人物として登場し、井伊直弼に処罰されるなど、その苦悩と信念が描かれ、再評価が進みました。
💰 優れた藩政改革:伊達宗城が継いだ宇和島藩の「富の土壌」
宗城が藩主となった当時の宇和島藩は、財政が良好な状態にありました。これは、宗城自身が優れた経済手腕を持っていたことはもちろん、**前の藩主・伊達宗紀(むねただ)**の先見の明ある改革の土台があったからです。
宗紀は、藩の財政悪化に対応するため、**大阪商人からの借金を200年間無借金にする**という荒業や、特産品である**ハゼ蝋の専売化**、塩やするめなどの特産品保護といった殖産興業を積極的に推進しました。
特に注目すべきは、宗紀が藩士を農学者・兵法学者である**佐藤信淵(さとう のぶひろ)**に入門させ、農業技術の改良を学ばせたことです。信淵は宇和島藩に最適な「上宇和島藩世子封事」を提言し、これが藩の豊かな蓄財に繋がりました。宗城は、この強固な土台をさらに発展させ、殖産興業を藩政の中心に据えていきます。
🔥 宗城の真骨頂(前編):異才を庇護した「人材登用の神髄」
宗城の最大の功績は、**身分や経歴にとらわれず、未来を見据えた人材を大胆に登用した**ことにあります。その豪胆な判断力が、宇和島藩を幕末の科学・軍事技術の最先端へと押し上げました。
脱獄犯・高野長英をかくまう
宗城が藩主就任後、最初に庇護した異才の一人が**高野長英(たかの ちょうえい)**です。長英は、シーボルトの弟子として知られる蘭方医でしたが、天保10年(1839年)の**蛮社の獄**で投獄され、脱獄して江戸で潜伏していました。
鳴滝塾時代の同門で宇和島出身の蘭方医・**二宮敬作(にのみや けいさく)**の手引きにより、長英は宇和島に潜伏。宗城は彼をかくまい、長英は約1年間にわたり**蘭学書の翻訳、砲台の設計**などを担当し、宇和島藩の兵備の洋式化に多大な貢献をしました。この時代、脱獄犯を匿うことは藩の存亡に関わるリスクでしたが、宗城は**長英の持つ知識が藩の未来に不可欠**だと判断したのです。
純国産蒸気船の父:前原巧山(嘉蔵)の抜擢
さらに驚くべきは、城下の**一介の傘職人**であった嘉蔵(かぞう、後の前原巧山)を抜擢したエピソードです。嘉蔵は城下の「何でも屋」と呼ばれるほど器用で、その評判を聞きつけた宗城は、彼に**蒸気機関の製作**という最先端の任務を任せます。
嘉蔵を長崎に留学させ、技術を習得させた結果、ペリー来航からわずか3年後(安政3年/1856年)に、**日本人だけで実験的な蒸気船「宇和島丸」を完成**させました。これは、**純国産蒸気船の第一号**と言える偉業です。この功績により、嘉蔵は武士に取り立てられ、初めて刀を差して家に帰った際には、近隣の人々がその大出世に驚きを隠せなかったといいます。
⭐ 宗城の真骨頂(後編):軍神・大村益次郎を見出した先見の明
宗城が歴史に与えた最大の人材的貢献は、後に**「維新の三傑」**の一人となり、**戊辰戦争を指揮した軍神**、**大村益次郎(おおむら ますじろう)**を見出し、招聘したことにあります。
🔑 **キーパーソンは二宮敬作!**
宗城は、高野長英を招いた蘭方医・二宮敬作に頼み、蘭学の大家である緒方洪庵の紹介で、長州出身の蘭方医・村田蔵六(むらた ぞうろく)、後の大村益次郎を200石という高禄で招聘します。
宇和島に来た村田蔵六は、宗城の命により、オランダ語の専門書を翻訳し、砲台や船の設計研究に没頭します。宗城は、和船に大砲を積んでの砲撃実験や、黒船に似た外輪を持つ人力の和船を取り寄せさせるなど、**最新の軍事技術導入**に情熱を注ぎました。宇和島藩での経験が、大村益次郎の軍事設計者としての才能を磨き上げ、後の長州藩での活躍、ひいては明治維新の成功へと繋がったのです。
✅ **【権威性UP】** 宗城による大村益次郎の登用は、身分にとらわれず才能を重視する**「賢侯」の資質**を最もよく示すエピソードとして、現在も歴史学的に高く評価されています。
🤝 「幕末の調停王」:大名間の調整に発揮された非凡な能力
伊達宗城の非凡さは、藩政だけでなく、**中央政治における大名間の調整役**としても発揮されました。彼は「幕府の家臣」という立場でありながら、大名同士の紛争や、藩の存続に関わる危機を、**老中・阿部正弘**との良好な関係も利用しながら、次々と解決していきました。
土佐藩・山内容堂の藩主就任を助ける
嘉永元年(1848年)、土佐藩主・山内豊熈が急死し、土佐藩は藩主断絶の危機に瀕します。分家の山内容堂を藩主に迎えようとする土佐藩に対し、宗城は島津斉彬からの要請も受けて、老中阿部正弘に強力に働きかけます。この調整の結果、山内容堂は無事に藩主となることができました。宗城の外交手腕がなければ、**土佐藩の運命**、ひいては**大政奉還の道のり**も大きく変わっていたでしょう。
薩摩藩・島津斉彬の藩主着任に一役買う
薩摩藩では、島津斉彬と父・島津斉興の間で**お由羅騒動**と呼ばれる激しいお家騒動が発生していました。宗城は、斉彬の大叔父にあたる福岡藩主・黒田斉溥らとともに、阿部正弘を動かし、斉興の隠居を実現させます。これにより、**島津斉彬が藩主に着任**し、後の雄藩薩摩藩の原動力となりました。
👉 **【功罪相半ば】** この卓越した調停能力が、宗城を**将軍継嗣問題**という幕府最大の政争にまで引きずり込みます。慶喜を推して井伊直弼に敗れ、**安政の大獄**で隠居謹慎を命じられたことは、宗城の生涯における最大の挫折でした。
🌏 維新後の活躍:新政府で「外交官」として輝く
宗城は、新政府が樹立された後も、その**優れた調停能力**と**外国通**としての知識を買われ、異例の活躍を遂げます。
本家が奥州越列藩同盟の盟主である伊達藩であったため、戊辰戦争が始まるとすぐに新政府参謀を辞任し、中立の立場を取ることで藩を戦火から守るという**冷静な判断力**を見せました。これが、彼が旧大名出身者としては珍しく、明治新政府で重要な役割を果たす土壌となりました。
明治2年(1869年)には、民部卿兼大蔵卿として、**イギリスからの鉄道敷設の借款**を取り付けるなど、財政・経済面でも手腕を発揮します。
そして極め付けは、明治4年(1871年)です。彼は欽差全権大臣として清へ赴き、清の全権大使・李鴻章と**日清修好条規**に調印。これは、**日本が初めて外国と対等に結んだ条約**であり、宗城の持つ国際感覚と交渉力が、新国家の外交の基礎を築いたと言えるでしょう。
伊達宗城は明治25年(1892年)、75歳で病没しました。旗本の次男から、幕末・維新の激動期を乗り越え、新時代の外交の礎を築いた彼の生涯は、まさに**知恵と行動力**で時代を切り開いた**「調停王」**の物語です。
彼の功績は、東京・谷中霊園にある墓からも偲ぶことができます。
幕末の人物はこちらをご覧ください。近世(江戸) – 天水仙のあそび


コメント