伊藤博文の明治政府における業績は?大日本帝国憲法制定の内情

歴史人物

伊藤博文は大日本帝国憲法の草案を作ったことと初代の内閣総理大臣となったことで知られています。この大日本帝国憲法はどうして作る必要があったかについて解説していきます。

そして、そのテーマに伊藤博文が国家の基本をなす事業をどのように実施してきたかを解説します。

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明治政府はどうして大日本帝国憲法を作成する必要があったのか

明治維新によって日本の幕府は滅びて、明治政府というものができました。しかしこの政府の制度は王政復古ですので、太政官制度です。これはなんと1200年前の養老律令の時代から変わっていませんでした。

明治政府の悲願は不平等条約の解消

明治になって諸外国の調査に出かけます。建前としては、欧米の国家の状況を見て近代国家にふさわしい形態を考えることになりました。

本当の、悲願は日本が幕末に結んだ不平等条約の解消でした。すなわち治外法権の撤廃、関税自主権の回復です。

それでも諸外国をみるにつけて、日本の法制度があまりにも前近代的であることを認識してしまいます。なにしろ1200年前の制度ですから仕方がありませんよね。

この体制のままに諸外国に条約改正を働きかけても、相手にされないことは火を見るより明らかであることを実感します。

一時は、形だけ西欧化の様子を見せるために鹿鳴館などを作って体裁を整えましたが、こんなことでは解消できるものではないのです。

このため、まずは国内制度を作り上げることが必要となるわけです。そのための骨格となるのが憲法です。

同じような事例は1300年前にも起こっていた

この構図、何処かで見たことがありませんか。

そうです。およそ1300年前に、日本が当時成立した大帝国隋に国交を結ぶ時と同じ構図です。この当時も推古天皇、厩戸皇子は隋に使節を派遣します。

そして国交を結ぼうとしますが、隋の煬帝に面会し、「そちらの国はどのような仕組みで政治を行っているのだ?」と使節に聞いたそうです。

そのとき、「わが帝は早朝より民のために仕事をしている。」ようなことを言ったため、完全にバカにされて、相手にされなかったことがあります。

その後、帰国してこれはまずいということになり、冠位十二階の制度と十七条憲法を制定など国内の制度を制定しました。

そして、再び隋に使節を派遣し、国交を結ぶことができたという事例によく似ていますね。日本の特徴なのか、歴史は繰り返すというのか面白いことが起こるものです。

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明治政府の伊藤博文はどのように大日本帝国憲法を作ろうとしたのか

そのためにも国内制度を作り上げなければなりませんが、初期の頃にはいろいろなことが起こってしまいます。まずは征韓論の高まりです。

更に、政府内の対応をめぐり、西郷隆盛などの有力者が下野してしまいます。次には各地で起こる不平士族の反乱です。そんなことから数年の時間が費やされてしまいます。

最後に西南戦争の勃発と最終的には西郷隆盛の自害で終わります。更には、戦争途中で木戸孝允も病没し、戦後には大久保利通が暗殺されるということに陥ります。

明治維新の三傑は木戸孝允が亡くなり、西郷隆盛が自決し、大久保利通が暗殺されたため、残された伊藤博文が明治政府の事実上の指導者として振舞うようになります。

西南戦争終了後の明治政府内の主要な考え方は

明治13年ごろになり、立憲体制への移行については、消極論者の岩倉具視斬新派の伊藤博文、井上馨やや急進的な大隈重信という体制になっていました。

さすがの消極論者の岩倉具視も、自由民権運動の高まりからこのままほっておくわけにはいかなくなります。

そこで政府内で検討しようと、各方面から、意見書が提出されることになります。当然、伊藤博文は斬新的な改革案を提出します。

憲法に対する考え方が明治政府内の政変に発展

大隈重信だけが意見書を出さなかったところ、イギリス流の立憲国家制と2年後の国会開設という急進的な案を密奏という形で有栖川宮親王左大臣に提出したことが判明し、伊藤博文は不信感を感じてしまいます。

しかもこの大隈案は福沢諭吉の民権論とも大筋一致していることから、大隈、福沢の画策と考え亀裂がはっきりします。

一方これに驚いた岩倉、井上毅太政官大書記官は早急にプロシア式の君権主義を提唱します。

伊藤博文はどちらとも距離を置いておりましたが、自由民権運動が開拓使官有物払い下げ事件を追求し始めると、大隈重信もこれに同調したため、政府内の利敵行為として政府からの追放を決意します。

これが明治14年の政変と言われているものです。結果、大隈重信の罷免、開拓使官有物払い下げ中止、10年後の国会開設の方針が決まります。

伊藤博文ら憲法調査のために渡欧する

10年後の国会開設の方針を決めたものの、そのためのルール、憲法を制定しておく必要があります。

明治15年(1882年)明治天皇から憲法調査のために渡欧を命じられます。ベルリンに向かいプロセイン憲法の逐条講義を受けます。

また、ウィーン大学にも歴史法学や行政についても学ぶことになります。

伊藤博文は内閣総理大臣に就任し憲法発布の準備にかかる

憲法発布前の準備として、行政府の官制の制定、官僚育成のための帝国大学の創設を決めます。引き続き条約改正の作業もしていかなければなりません。

明治20年(1887年)には横須賀市の夏島にあった伊藤博文の別荘で憲法の草稿作成にかかります。これに取り掛かったのは、伊藤博文、井上毅、伊藤巳代治、金子堅太郎です。

やはり東京で首相をしながらでは時間が取れなかったようです。

最初は横浜の旅館で作業していたのが、カバンを盗まれるというハプニングがあり、政治的な犯行かと思われたが、最終的には空き巣であることが判明し一同はほっとしたとのこと。

そこで最後は夏島に移っての作業となりました。

伊藤博文内閣総理大臣を辞任する

明治21年(1888年)には初代の枢密院議長となるために総理大臣を辞任しています。え、どうしてと思うでしょう。私もそう思いました。

この枢密院は憲法草案審議を行うために創設された組織ですので、天皇の最高諮問機関と位置づけされているものです。この時点では、憲法作成に全力を注ぐ必要があったようです。

意外と一途なところがある人です。

大日本帝国憲法が発布されます

明治22年(1889年)2月11日、第1次伊藤内閣の後を継いだ黒田内閣の下で大日本帝国憲法が明治天皇から黒田清隆首相に渡されて、発布されることになります。

こうして長年の懸案事項も終息を向かうことになりました。大日本帝国憲法=伊藤博文の構造ですので、まさか、黒田内閣で成立したとは思いませんでした。

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伊藤博文の明治政府における業績は?大日本帝国憲法制定の内情のまとめ

伊藤博文の明治政府における最大の業績と言われる大日本帝国憲法成立の内情について解説しました。

こうしてみると、伊藤博文という人は大日本帝国憲法草案については本当に真摯に取り組んだ人であることがわかります。

現代と違って、政府機能もそれなりにシンプルであったとしても、これだけの勢力を注げることに関心もします。また、明治天皇もたびたび自分の意見を述べたりして、そんな政府の若々しさを感じます。

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