ポーランドとソ連との間にあるリトアニアのカウナスの日本領事館の杉原千畝領事代理から命のビザを受け取ったユダヤ人は、その後どのような経路を経て安全な地域に逃げ延びたのでしょうか。
ビザを受け取っただけでは逃避行は成立しません。その間の長い道のりをどんな人に助けられ、彼らはどのように切り開いたかを説明します。
杉原千畝氏の在リトアニアカウナス日本領事館でのあらまし
1939年8月28日に杉原千畝氏はカウナスの生活を始めます。こんなところに赴任したのはソ連への諜報活動が主な目的です。
その直後の9月1日にはドイツがポーランドに侵攻し第二次世界大戦がはじまります。ソ連もポーランドに侵攻します。翌1940年6月15日にはソ連軍がリトアニアに進駐します。
1940年7月にポーランドから逃亡したユダヤ系難民がビザ取得に向けて活動を始めます。
しかしリトアニアの領事館、大使館はソ連から閉鎖を求められたため、業務を行っていた日本の領事館にオランダ領のカリブ海アンティルへの通過ビザを求めて殺到することになるのです。
杉原にとって、これは想定外の業務であったでしょう。そこから8月31日までに大量のビザを発行することになるのです。
命のビザを受け取ったユダヤ人はその後どの方向を目指したか
ポーランドから逃亡してきたユダヤ人にとって西に向かうことは自殺行為です。西にはナチスが支配しており、うまくいって収容所、まずければその場で殺されてしまいます。
方法としては東に向かうシベリア鉄道に乗ることだけでした。
しかしこのシベリア鉄道に乗ることも簡単ではなかったのです。当然旅費の問題が発生します。ソ連も外貨不足で一人当たり160ドルという料金を払わなければ乗れない状態でした。
【 リトアニア】カウナス、杉原千畝記念館。ユダヤ人に日本通過ビザを発給し、大勢のユダヤ人を救った”日本のシンドラー”と言われます。#リトアニア #カウナス #杉原千畝 #日本のシンドラー #命のビザ #日本通過ビザ pic.twitter.com/mt8gGvVkDC
— NPO法人札幌ノボシビルスク協会 (@NPOsapporo) July 10, 2019
樋口季一郎はオルトポールでなぜユダヤ人を救ったのか?意外な人が関係
杉原千畝氏のビザを持ったユダヤ人はシベリア鉄道でウラジオストックへ
シベリア鉄道に乗ったユダヤ人は大部分がウラジオストックに向かいますが、まだまだ困難が続きます。
ウラジオストック日本領事館根井三郎領事代理の貢献により日本へ
ウラジオストック日本領事館では1941年2月から外務本省から杉原氏の発行したビザについて再検閲するよう求められます。外務本省としてはドイツへの配慮から杉原氏のビザ発行については相当の問題意識を持っていました。
ここで登場するのが根井三郎領事代理です。彼はこの指示に対して、逆に公的なビザについて無効にすることは大日本帝国の威信を踏みにじるものとして、杉原氏発行のビザについては追認します。
また、ビザを持たない者に対しては、渡航証明書や通過ビザを発行しています。
この活動は根井が難民を助けた理由を語らなかったため、死後20年以上たった2015年に紹介されて初めて世の中に知られるようになりました。
在米ユダヤ人協会から依頼をうけた日本交通公社の手配
在米ユダヤ人協会はユダヤ難民救援会を組織して、アメリカ政府の許可の下にウォルター・プラウンド社を通じて日本交通公社に斡旋の協力を依頼していました。
ウラジオストックから敦賀を経由して神戸又は横浜経由でアメリカに渡る経路を交通公社が手配することになりました。
当時日本交通公社は日本政府の強い監督下にありましたが、外務大臣松岡洋右の理解のもとにこの事業を進めていたようです。1940年9月~1941年6月まで毎週1便、合計1万5千人の輸送をおこなったといわれています。
杉原千畝展 「命のビザ」実物を公開 東京・日本橋 | 毎日新聞 https://t.co/n0S6HSv1cN
多くのユダヤ人を救った外交官は、杉浦千畝だけではなく、「国に逆らって」ビザ発給でもない。
彼は「国策」に沿って、通過ビザを発給した。ウラジオストックでも「命のビザ」が発給されている。 pic.twitter.com/EvVTqsW8ws
— 大吾郎 (@gefLcQaPEgtXo7n) August 3, 2021
杉原千畝氏のビザを受け取ったユダヤ人はその後日本国内で
ウラジオストックから日本海を渡って敦賀に着いた頃にはユダヤ人難民もほっとしたことでしょう。取り敢えず命の危険はなくなったのですから。でも、それからも若干のトラブルはありました。
敦賀市民の受入れから在留期間の延長問題
敦賀市民は外国人に対して慣れもあり、あまり偏見を持たなかったが、あまりにもみすぼらしい姿に驚いたようです。市民の中には食料を提供したり、銭湯を無料提供したり、時計など貴金属を換金したりする人も現れたようです。
そして、ユダヤ人コミュニティがある、横浜及び神戸に向かいます。しかしそこから問題が発生することになります。杉原氏のビザで許可された滞在日数は10日しかありません。
在日のユダヤ人は以前満州でユダヤ人のために活動していた小辻節三に協力を仰ぎます。彼は各方面に掛け合いますが全く効果がありません。ついに外務大臣松岡洋右に頼み込むことになります。
松岡は一つの知恵を授けます。外国人の滞在許可については、内務省の警察の管轄になるので彼らが了解すれば外務省は関知しないと。
このため、小辻は神戸の警察の幹部に接待攻勢をかけて、在留許可の延長を勝ち取ることに成功します。この時の費用は現在の価格で4,800万円ぐらいといわれていますが、小辻は富裕の親戚からの借り入れで支出したといわれています。
1941年(昭和16年)。アサヒグラフ「国を追われた人々 流浪するユダヤ人」という3月の記事です。欧州→ソ連→日本と逃れ、当時の神戸にはユダヤ人が大勢いたようです。ただし許された滞在期間は3週間、彼らは無事米国へ行けたのでしょうか。 pic.twitter.com/ZCMA81Ux2P
— 明治・大正・昭和の写真 (@polipofawysu) February 28, 2018
樋口季一郎はオルトポールでなぜユダヤ人を救ったのか?意外な人が関係
杉原千畝氏のビザを受け取ったユダヤ人はその後どう移動したかのまとめ
以上のように、杉原千畝氏の通過ビザを手に入れたユダヤ民難民であっても、安住の地にたどり着くまでには、このような苦労と、様々な助けが必要であったのです。
外務省の根伊三郎に至っては1992年に亡くなってから13年もあとにその活動が世に知られるようになり、故郷の宮崎市では2016年に根井三郎顕彰会が発足しています。それでもどうして何も語らなかったかは不明のままです。
神戸で在留許可の延長に努力した、神学者の小辻節三は1973年に神戸で亡くなりましたが、死後エルサレムで埋葬されたそうです。彼も、あわよくば強制送還の可能性をつぶした功労者です。
最後に、松岡洋右外務大臣です。戦後は、日独伊三国軍事同盟の調印者として極めて評判が悪いのです。また、杉原千畝領事代理にビザの発行をもっと厳格にするようにとの命令も、外務大臣の名前で出されています。
しかしながら、国家的な政策と人道的な政策とは使い分けていたようで、ユダヤ民難民の輸送の件についても、また、在留許可の延長の件についても極めて柔軟な解決策を提示しています。
こんなような、連綿とした努力の糸が連なって、杉原千畝氏のまいた種が実ったと言えるでしょう。
コメント