16世紀後半、日本のキリシタン大名たちが送り出した天正遣欧少年使節。その中のひとり、千々石ミゲル(ちぢわ・ミゲル)の人生は、信仰と国際交流、そして裏切りと失望のドラマに満ちています。最近、彼の墓所とみられる場所の発掘が進み、注目を集めています。本記事では、千々石ミゲルの生涯とその波乱に満ちた軌跡を丁寧に解説します。
天正遣欧使節の4名の少年:その出自と背景
1582年に派遣された天正遣欧少年使節は、当時のキリシタン大名がそれぞれの「名代」として送り出した少年たちで、いずれもキリスト教教育を受けたエリート少年でした。
- 伊東マンショ: 日向の大名・大友宗麟の名代として選ばれました。元は伊東義祐の一族で、幼い頃からセミナリオ(神学校)で学び、優れた信仰心と知性を持っていたと伝わります。
- 千々石ミゲル: 肥前の大名・大村純忠の甥にあたり、本人の出自も有馬氏系の名門でした。父を戦で失い、大村家に身を寄せたのち、キリシタン教育を受けてミゲルの名を得ました。
- 中浦ジュリアン: 肥前有馬の出身で、名家・中浦氏の出とされます。貴族的な血筋ではないものの、深い信仰心と語学の才を持ち、布教に強い情熱を持っていたといいます。
- 原マルチノ: 肥後の武士の家系に生まれ、当時のセミナリオでも屈指の学識を持つ少年でした。特に語学の才能に秀でており、ラテン語の翻訳能力に優れていたと記録されています。
彼らはいずれも10代半ばで選ばれ、キリスト教の希望を担う使節として、過酷な長旅に臨むことになったのです。
千々石ミゲルの出自と生い立ち
千々石ミゲルは永禄12年(1569年)、肥前国のキリシタン大名・千々石直員の子として生まれました。直員は有馬氏の一族であり、戦で命を落とした後、ミゲルは大村純忠のもとに身を寄せます。
キリスト教の影響を強く受けた大名の庇護を受け、イエズス会の活動の一環として洗礼を受け、「ミゲル」と名乗るようになります。
天正遣欧使節団への選出
1582年、イエズス会士アレッサンドロ・ヴァリニャーニの提案により、4名の少年がヨーロッパへの使節に選ばれました。
- 伊東マンショ(正使・大友宗麟の名代)
- 千々石ミゲル(正使・大村純忠の名代)
- 中浦ジュリアン(副使)
- 原マルチノ(副使)
彼らは1582年に長崎を出発し、マカオ、ゴア、喜望峰経由でヨーロッパへと旅立ちました。1585年には教皇グレゴリウス13世、さらにシクストゥス5世にも謁見するなど、使節として大きな成果を挙げます。
帰国後の千々石ミゲル:棄教と葛藤
1590年、7年半の旅を経て帰国したミゲルを待っていたのは、キリスト教に厳しい世相の変化でした。1591年には豊臣秀吉に拝謁し、司祭になるためにコレジオ(修練院)に入りますが、徐々に神学への情熱を失います。
理由として、ヨーロッパで目にした奴隷制度や宗教と権力の結びつきに疑問を抱いたとされます。1601年には正式にキリスト教を棄教し、イエズス会から除名されました。
大村藩仕官と晩年の足跡
棄教後は「千々石清左衛門」と名乗り、大村藩に仕えます。主君・大村喜前にも布教停止を進言し、ドミニコ会の布教活動にも反対しました。彼は西洋列強の布教が日本への侵略につながることを見抜いていたともいわれています。
このため、藩内のキリシタンたちから強い反発を受け、大村藩政から遠ざけられます。暗殺未遂に遭い、重傷を負って長崎に移住したとも伝えられています。最晩年の詳細は不明ですが、晩年は穏やかとは言えなかったようです。
千々石ミゲルの墓所と遺骨の発見
2021年、長崎県諫早市で発掘された人骨が、千々石ミゲル本人のものではないかとされ、現在も調査が進められています。最初に見つかったのは成人女性の遺骨で、彼の妻のものではないかとされています。続いて発見された2体目の人骨が、ミゲル本人とされる可能性があるのです。
副葬品は見つかっていませんが、ミゲルの人生を語る上で貴重な物証となることが期待されています。
他の天正遣欧使節団メンバーのその後
伊東マンショの晩年
伊東マンショは帰国後、九州各地で布教活動を行いました。小倉では細川忠興により追放され、中津、次いで長崎に移住。司祭叙階には至らなかったものの、信仰を貫き1612年に病没。2014年にはイタリアのコレッジョ市で肖像画が発見され、大きな話題となりました。
中浦ジュリアンの殉教
中浦ジュリアンは司祭となった後も布教を続け、1614年のキリシタン禁教令以降も潜伏しながら活動を続けました。1632年に小倉で捕まり、翌年長崎で他の修道士らと共に穴吊るしの刑に処され、殉教。2007年にはバチカンより「福者」として列福されました。
原マルチノの学問と最期
原マルチノは語学に秀で、ラテン語やポルトガル語の翻訳に貢献。帰国後も布教活動を続けていましたが、1614年の禁教令を受けてマカオに亡命。マカオでは多くの著作と翻訳を残し、1629年に死去。遺体は現地の聖パウロ大聖堂に葬られました。
まとめ:千々石ミゲルの意義と歴史的評価
千々石ミゲルは、単に天正遣欧使節の一員というだけでなく、信仰と現実の狭間で葛藤した人物として歴史に名を残しています。イエズス会にとっては「裏切り者」ともいえる存在でしたが、彼の視点から見れば、日本と西洋との関係を深く洞察した先見性の持ち主ともいえるでしょう。
その墓所の発掘と調査が進む中で、彼の真の姿がより明らかになることが期待されます。日本と世界をつないだ青年の軌跡は、今なお私たちに多くの問いを投げかけています。
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