千々石ミゲルの墓所で当人らしい遺骨を発見。ミゲルはどんな人?

歴史人物

16世紀後半に九州のキリシタン大名が派遣した天正遣欧使節の千々石(ちぢわ)ミゲルの墓所を調査していました。

最初は女性でしたが、2体目の人骨が発見され、当人のものかどうか専門的な調査を開始することとなりました。この主人公の千々石ミゲルについてご紹介していきます。

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千々石ミゲルの生い立ちはどんな人

千々石ミゲル(ちぢわ)永禄12年(1569年)に生まれ、寛永9年(1633年)に亡くなったといわれています。ミゲルはキリシタンの洗礼名です。後に棄教したといわれ、千々石清左衛門と名乗っています。

肥前有馬氏の当主である、有間晴純の三男の千々石直員の子として生まれます。数年後に父が合戦で亡くなり、城が落城すると、父の兄にあたる大村純忠に身を寄せていました。

有馬氏、大村氏はキリシタン大名でもありますので、翌年には洗礼を受けて、千々石ミゲルと名乗っていました。

そして転機が訪れます。イエズス会司教アレッサンドロ・ヴァリニャーニのすすめによりローマに使節団を送ることになります。

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千々和ミゲル、天正遣欧使節団の一員としてローマへ向かう

キリシタン大名有馬晴信が建てたセミナリオで学ぶ生徒から使節として派遣される人が選ばれます。

伊東マンショ(主席正使)大友宗麟の血縁であり、宗麟の名代として派遣されます。

千々石ミゲル(正使)大村純忠の甥で名代として派遣されます。

中浦ジュリアン(副使)

原マルチノ(副使)

随員として、日本人3名、スペイン人4名の構成でした。日本人2人は印刷技術の取得のためとなっています。

一行は1582年2月長崎を出て、マカオ、マラッカ、ゴア、喜望峰周りで、1584年8月リスボンに着きます。

スペイン王フェリペ2世、1585年3月にはローマで教皇グレゴリウス13世に謁見し、5月には教皇シクストゥス5世の戴冠式に出席します。

1586年4月にリスボンを経て、同じ航路で、1590年7月に長崎に到着します。行きに2年半帰りに4年3ヵ月の大旅行でした。

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日本に帰国後の千々石ミゲルはやがてイエズス会から脱会することに

日本に帰った頃には世の中の状況はすっかり変わっていました。キリスト教についての姿勢もだいぶん厳しいものになってきていますし、既に戦国の世は終わりとなり豊臣秀吉の天下となっていました。

1591年豊臣秀吉に拝謁することになります。その後は司祭になるべく修練院に入りコレジヲに入り勉学を進めていました。

しかし千々石ミゲルは他の三人とは異なり、神学への熱意を失ってしまいます

原因としては、欧州での奴隷制度の現状を見て不快感を得たこととこれが昂じてキリスト教への疑問を感じたとされています。そして、1601年キリスト教の棄教を宣言して、イエズス会から除名処分となります。

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千々石ミゲルは清左衛門と名を改めて大村藩に仕える

叔父の後を継いだ大村喜前が大村藩を立てるときに召し出され、諫早市多良見地区に領地を与えられます。そして主君喜前にも棄教をすすめています

また、ドミニコ会が大村藩での布教を求めることにも反対をしています。日本での布教は異国への侵略を目的としたものであると述べていることから、西欧諸国が各国でやってきたことを正しく見極めていたようです。

イエズス会としては大損害だったでしょう。せっかく布教の実績を示すためにローマまで送り込んで、教皇にまで謁見した使節が寝返ってしまったのですから、たまらないでしょう。しかもその手の内を知っていて、あちこちで自分たちに敵対するのですから。

藩内には多くのキリシタンがいましたので、千々石ミゲルに対する反発は厳しいものになってきました。このため、大村喜前は千々石清左衛門を藩政から遠ざけます。

暗殺未遂事件もあったようで、そのために重傷を負ったとも言われています。そして長崎に移り住んだとも言われていますが、晩年はどのような生活をしていたかはわからないようです。

 

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その他の天正遣欧使節団のメンバーはどのようになったのでしょうか

他の3人は神学の高等課程を学ぶためマカオに移り、同時期に司祭になります。

伊東マンショのその後の人生は

伊東マンショは小倉に拠点を持ちましたが、領主細川忠興に追放され、中津に更に長崎に移ります。そして1612年に病死します。2014年イタリア北部の個人所蔵となっている肖像画が発見されました。

中浦ジュリアンのその後の人生は

中浦ジュリアンは1613年黒田長政がキリシタン弾圧に乗り出したので、長崎に移ります。しかし1614年に幕府のキリシタン追放令が出されると、潜伏活動を続けます。

しかし1632年に小倉で捕まり長崎に送られ、1633年他の修道士とともに穴吊るしの刑に処せられました。2007年福者に列せられました。

原マルチのその後の人生は

原マルチノは語学の才能があったようで、ラテン語に優れていたと言われています。そのため、洋書の翻訳と出版活動を盛んに行っています。1614年のキリシタン追放令を受けて、マカオに移り住みます。そして1629年にマカオで亡くなります。遺骸はマカオ大聖堂に葬られています。

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千々石ミゲルの墓所で当人らしい遺骨を発見。ミゲルはどんな人?のまとめ

千々石ミゲルの墓所の調査は3年前ぐらいから始まっていたようです。最初にに発掘された人骨はどうやらロザリオをかけていたようですが、成人女性であるので清左衛門の妻ではないかと言われています。

今回発掘されたものが当人である可能性があるため、詳細な調査に入ると言われています。千々石ミゲルは棄教したと言われていますが、イエズス会を離れただけで、信仰そのものは失っていなかったとも言われています。

果たしてどちらが正しいのか、今後の調査を待つことにしましょう。

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