井伊直弼の安政の大獄から桜田門の変に至った生涯をやさしく解説

歴史人物

幕末の彦根藩主で大老の井伊直弼は、安政の大獄を経て、桜田門外の変で暗殺された人です。大河ドラマ「青天を衝け」では、岸谷五朗さんが演じています。井伊直弼とはどんな人かやさしく解説していきます。

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井伊直弼の安政の大獄から桜田門の変に至った生涯

大老井伊直弼は小説では「花の生涯」と言われていますが、本当に表舞台に出てきたのはほんの10年ほどです。

文化12年(1815年)第13代藩主井伊直中の十四男として彦根城で生まれる。

父親の死後32歳まで部屋住みとして過ごしている。何しろ14男ですから、ほとんどだれもかえりみないのです。ところが兄弟がどんどんいなくなっていきます。

弘化3年(1846年)第14代藩主井伊直亮の養嗣子直元が亡くなったため、彦根藩の後継者になる。直亮も直元も直弼のお兄さんにあたります。

その後江戸住まいをする。後継者として江戸でいろいろな方とお付き合いしていたようです。

嘉永年(1850年)直亮の死去に伴い彦根藩主となる。時に35歳です。ここまでは全く無名です。

この間に、黒船来航で攘夷か開国かで国論が二分される。この間に従来は譜代大名が政策決定を行っていたことに覆し、雄藩の意見を聞く方式に切り替える。このため、徳川斉昭の介入を招くことになる。

安政5年(1858年)第13代将軍家定の意向により大老に就任。42歳です。日米修好通商条約に調印することになります。

調印をめぐって幕府の姿勢に対して朝廷より説明を求められるが無視します。また、これに対して朝廷は幕府を無視して水戸藩に密勅を出したため、相当両者の関係はこじれます。また、尊王派の大名とも関係が悪くなります。

そして安政の大獄へ。これまでの関係者を処分します。密勅返上の是非をめぐって水戸藩と混乱。

万延元年(1860年)3月3日桜田門外にて水戸藩脱藩浪士17名、薩摩藩士1名の計18名に衆人看視の下で襲われ、落命します。享年44歳です。

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井伊直弼の安政の大獄から桜田門の変に至った生涯、政治以外にはどんな人だったか

何しろ下積みの生活が長かったので、その間いろいろな趣味に手を出していたようです。それもかなりレベルの高いところまで行っています。一流の趣味人と言えるでしょう。

ざっというと、国学、曹洞宗の禅、絵、和歌、兵学・居合・槍術などの武術、茶の湯、能楽などです。特に一流レベルまで行ったのは次のものです。

居合では新心流から新心新流を開いています。

茶の湯では「宗観」の名を持ち、石州流の中に一派を確立しています。著書も著しています。

著書『茶湯一会集』巻頭に「一期一会」と表現したことにより、同じく茶道の重要な精神とされる「独座観念」とともに四字熟語の形で広まった

能楽では新作狂言「鬼ヶ宿」の制作や、廃曲となっていた「狸の腹鼓」の復曲を行っています。一度見たり聞いたりしてみたいですね。

歌人としては私歌集「柳廼四附」を残しています。

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井伊直弼の安政の大獄から桜田門の変に至った生涯をやさしく解説。どんな評価になるのでしょうか。

井伊直弼を語るのに日米修好通商条約と安政の大獄について語る必要があると思います。それらについて簡単に説明します。

日米修好通商条約

井伊直弼について開国派と言われていますが、それほどでもなかったようです。ただ違うのはそのまま素直に攘夷をできるとは思っていなかったことです。

一旦は従うが、国力が整えば攘夷もできると考えていたようです。後世の我々からすれば当たり前の判断だと思います。外国との国力の差を考えればこれを拒否はできないことは明白だったでしょう。

また、井伊直弼も勅許なしの調印は反対であったようです。別の見方もあります。例えば鎖国ですが、これを決めたときは勅許など取っておりません。この政策を変更するのですから何も勅許は必要ではなかったという見解もあります。

いずれにしろ、勅許もとるつもりけあったのですが、やむを得ない場合は調印して良いという了解を与えたのが原因のようです。

直弼は戦争になるくらいならという意識だったのを、安易に調印してしまったようです。

こんなことも組織が巨大になるとよくありますね。限定付きの許可を与えたつもりが、現場では了解を得たとしてどんどん進んでいってしまうことです。

満州事変の際の軍部の拡大路線とよく似ています。

さすがに直弼も勅許を得ずに、現場で先行してしまったことはまずかったと思っていたようですが、もはや、為してしまったことについては、腹をくくるしかなかったようです。

すぐに、徳川斉昭、松平慶永と水戸藩主・徳川慶篤、尾張藩主・徳川慶恕が江戸城に登城して、猛烈に抗議したけれど後の祭りでした。

安政の大獄

最初は、先ほど紹介した密勅が幕府の体制を覆すものとして厳しい取り調べが始まりました。

さらに取り調べを進めていくと、討幕をふくむ反体制の計画が見つかったため、多くの志士がとらえられ処刑されています。有名な吉田松陰、橋本佐内もこの中に含まれています。

次の段階は、密勅を返納することをめぐっての争いでした。水戸藩にある密勅を幕府に返すように、朝廷側に工作をしました。水戸藩の中では幕府に返すか返さないかで藩内が争うことになります。

密勅に関係した公家が処分を受けます。さすがに死罪はありません。さらに、水戸藩、尾張藩関係の処分がされます。こちらも死罪はありません。

処罰は幕臣にもおよびます。井伊直弼の方針に反対したものについては排斥されました。

この安政の大獄は恐怖政治の代表みたいに言われていますが、本当にそうでしょうか。相手は親藩といえども徳川幕府体制を完全に無視して物事を進めようとしている人たちです。

厳しい言い方をすれば体制転覆です。さらに実行犯として幕府転覆を図る計画まででてくるのでは、厳しい対応をするのはむしろ当たり前だとも考えます。

しかも、できもしない攘夷を実行しようとして、外国排斥に走るのですからどうかしていると考えられないでしょうか。井伊直弼に同情的になりすぎているかもしれませんがそう思います。

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井伊直弼の安政の大獄から桜田門の変に至った生涯をやさしく解説のまとめ

井伊直弼についていろいろ調べていくと本当に同情したくなる感じがします。どうして、日本人は世界の情勢を客観的に議論することができないでしょう。

日本人が考える最強の世界帝国清ですら、英国に簡単に負けてしまったことを知っていても、冷静に行動することができないことは誠に残念です。

特に朝廷が絡むと本当に病的な感じになることは数十年後になっても続きますよね。歴史を世界に誇るのは良いとしても、盲目的に唯一の神の国だと思い込むことは危険だと思います。

さて、大老井伊直弼は桜田門外、今の警視庁の前で水戸浪士たちに襲われて命を落としてしまいます。

彦藩邸からほんの数百メートルの距離で、大勢の見物客が大名の節句の登城を見ていたところを襲われたそうです。

井伊直弼は、身の回りが危ないとの情報を得ていたようですが、無用な混乱を避けるため平静を装って登城したといわれています。

いきなり籠を銃で撃たれて、重傷を負ったようで、日ごろ鍛えた居合の腕も使うことができなかったようです。

当日が雪でなければ刀の鞘をカバーもせずに護衛も機能したのですが、残念です。

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