映画「るろうに剣心」で江口洋介さん演じる剣客斎藤一が活躍します。彼は、映画のキャラクターだけではなく、実在の人物です。
幕末にあっては新選組をはじめとして会津戦争、西南戦争を生き抜いて活躍された方です。その実像についてご紹介することとします。
斎藤一こと改名した藤田五郎はどんな人?実際の経歴は
天保15年1月1日(1844年2月18日)江戸に生まれる。実際は山口姓であったよう。旧暦1月1日から名前の一を使った様子。
青年期の逸話は特に残っていないしどこで剣術を修めたかもはっきりとしていない。
文久3年(1863年)新選組が壬生浪士組として結成したとき入隊する。この頃には斎藤一と名乗っている。
早くして剣の腕を認められ、副長助勤に抜擢され、三番隊長を務める。
元治元年(1864年)池田屋事件に参加。恩賞を受ける。
慶応4年(1868年)鳥羽伏見の戦い、甲州勝沼の戦い甲府戦争に参加。会津藩の指揮下に入り白川口の戦いに参加。会津藩降伏後投降し謹慎生活を送る。
明治2年(1869年)会津藩士とともに斗南藩士として下北半島に移住。会津の名家篠田やそと結婚。
明治7年(1874年)会津の名家高木時尾と再婚。松平容保が仲人を務める。藤田五郎に改名。東京に移住し警視庁に採用される。
明治10年(1877年)西南戦争に参加。
明治12年(1879年)勲七等青色桐葉賞と賞金100円を授与される。
明治25年(1892年)警視庁退職。
明治27年(1894年)東京高等師範学校附属東京教育博物館の看守(守衛長)、同校の撃剣師範
明治32年(1899年)東京女子高等師範学校庶務掛兼会計掛
明治42年(1909年)退職
大正4年(1915年)胃潰瘍のため死去。72歳。
大正4年9月28日は斎藤一の命日
新撰組三番隊組長
実は沖田総司より若い😊
あってもタメ😊
藤堂平助と同年😊何度も激戦を生き抜いた人☝️
るろうに剣心の斎藤一が一番近い気はする😊
顔は違うけど😊 pic.twitter.com/ATL4DrwaKC— 朝 『杏’s』 (@qedcmbqed) September 28, 2018
斎藤一こと改名した藤田五郎はどんな人?るろうに剣心での活躍は?
幕末における緋村剣心の宿敵の一人。維新後は「藤田五郎」と名を変え、警官となっており、現階級は警部補であるが、警視庁の密偵でもある。
非常に冷徹で無愛想な一匹狼として、「殺人鬼みたいな目つきの男」と言われている。
己の信念でもある「悪・即・斬」を絶対の正義としており、これに反する者はたとえ政府高官であろうと容赦なく粛清する。
原作者がデザインした花札では剣心、比古、志々雄、宗次郎、縁とともに最強系の一人として挙げられた。
という感じで、非常に危険人物として描かれております。
緋村剣心とは幕末に長州藩の剣客と新選組三番隊長として対峙しています。決着がつかずに幕末を迎えてしまいました。
明治になってからは、京都大火編で志々雄の計画で京都を火の海にするのと大阪を砲撃するたくらみを阻止しようと出動しております。
その時は剣心とは立場を同じくしていますが、特段共同作業をしている感じではなかったようです。剣心は一素浪人ですし、斎藤一とは立場が違いますよね。
また、北海道編では北海道まで出かけて、永倉新八とも再会し、剣心とも出会っています。
経歴上はそのようなことは見えてこなくて、少なくとも、西南戦争後は穏やかな暮らしをしていたようですが、実際はどうだったのでしょうか。密偵だったらわかりませんね。
『るろうに剣心 京都大火編』
前作に続く再上映を鑑賞。
剣心と共闘する斎藤一のカッコよさが前作以上に際立っている。 pic.twitter.com/701z6pm3Gi— 映画の感想ツイート (@ongaku_eiga) April 10, 2021
斎藤一こと改名した藤田五郎はどんな人?新選組からのエピソード
沖田総司、永倉新八と並び新選組最強の剣士の一人であったといわれる。 永倉新八は、「沖田は猛者の剣、斎藤は無敵の剣」と語ったという。 新選組の撃剣師範を務めた。
明治21年(1888年)の警視庁の剣術家名簿に藤田五郎(斎藤)の名前があり、級位は「四級」とある。
当時の四級には他に川崎善三郎、門奈正、内藤高治など大日本武徳会の範士となる剣士がいた。
東京高等師範学校(東京教育大学を経た、現在の筑波大学)では撃剣師範を務め、学生に剣術を教えたといわれる。
誰ひとりとして斎藤の竹刀に触れることさえできなかったといわれている。このようにとても素早い動きができたのでしょう。
西南戦争の際には、別働第三旅団豊後口警視徴募隊二番小隊半隊長として戦闘参加。大砲2門を奪取するなど非常なる活躍を見せ、東京日日新聞にも報道されるほどであった。
明治の末に神道無念流有信館の山本忠次郎が木に吊るした空き缶を竹刀で突く練習をしていたところ、斎藤と思われる老人が通りかかり、忠次郎の竹刀で缶を突いてみせた。
老人は一瞬のうちに突き、缶は揺れることなく貫通したとされる。
老人は「突き技は突く動作よりも引く動作、構えを素早く元になおす動作の方が大切」、「突きは初太刀でうまくいくことは少ない。私が成功したのはほとんど三の突きでした」と述べている。
斎藤一の長男の勉(陸軍士官学校第9期、陸軍歩兵中佐)はたびたび竹刀を持って物陰に潜み、子供たちが帰宅すると不意打ちして「士道不覚悟!」と子供を叱ったという。
また、「武士たる者は、玄関を出るときは頭から先に出るな、足から出よ、不意に斬りつけられた場合、頭をやられれば致命傷だが、足ならば倒れながらも相手を下から突き上げて殺すことができる」と説教するのを常としていた。斎藤一から受けた教訓だった模様。
斎藤一こと改名した藤田五郎はどんな人?るろうに剣心での活躍は?のまとめ
新選組の有名な剣の使い手「斎藤一」の実際の姿を調べてみました。彼の前半は激動の人生だったのですが、後半は穏やかに暮らしていけたようです。
それでも一つ気になるのは、戊辰戦争中会津藩に加わって、それからというものはまるで会津の幹部のような扱いを受けているのです。
どのような経緯があってそうなったのか、それとも彼の腕がみんなを引き付けたのか定かではありません。
東京に移り住んでも旧会津藩の方々とは最後まで深く交流が続くことになります。彼の最後の逸話はなくなる時も気丈に、床の間で結跏趺坐の形で亡くなったといわれています。
新選組出身で天寿を全うできた数少ない剣士の一人です。
亡くなった後も妻の時尾とともに会津に眠っています。
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