「聖徳太子」と聞くと、あなたは何を思い浮かべますか?
かつての一万円札の顔、一度に10人の話を聞いたという伝説、そして「冠位十二階」や「十七条の憲法」を定めた偉人…。多くの方が、日本の歴史におけるスーパースターのようなイメージをお持ちではないでしょうか。
しかし、なぜ聖徳太子はこれらの大きな改革を行う必要があったのでしょうか?
実は、彼の行った改革の裏には、当時の日本(倭国)が置かれていた、国際社会での非常に厳しい現実がありました。巨大帝国「隋(ずい)」との出会いが、若き聖徳太子に大きな衝撃を与え、国づくりの大改革へと突き動かしたのです。
この記事では、聖徳太子が推古天皇の摂政(せっしょう)として活躍した後半生に焦点を当て、彼の代表的な業績である「冠位十二階」と「十七条の憲法」が、どのような背景と目的で定められたのかを、歴史が苦手な方にも分かりやすく、物語を追うように解説していきます。
この記事で分かること
- 聖徳太子が政治の中心に立つ前の日本の状況
- 大国「隋」から受けた屈辱的な扱いとは?
- 「冠位十二階」で何を変えようとしたのか?(目的と内容)
- 「十七条の憲法」に込められた、役人へのメッセージとは?
- 聖徳太子の改革が、その後の日本に与えた大きな影響
改革前夜:聖徳太子が登場する前の日本
豪族中心の国と、大陸への進出
聖徳太子(厩戸皇子/うまやどのおうじ)が、叔母にあたる推古天皇の摂政(天皇に代わって政治を行う役職)に就任したのは、推古元年(593年)のことでした。この頃の日本は、まだ「天皇中心の中央集権国家」とはほど遠い状態でした。
政治は蘇我氏(そがし)や物部氏(もののべし)といった、力のある豪族(ごうぞく)たちが中心となって動かしており、国としてのまとまりはまだ強くありませんでした。
聖徳太子が政治に関わり始めた20代前半の主な活動は、朝鮮半島の新羅(しらぎ)へ軍を送るなど、大陸への進出が中心でした。これは、当時の為政者としてはごく一般的な行動であり、私たちがイメージする「和を以て貴しとなす」という平和主義的な聖徳太子の姿とは、少し異なる印象を受けるかもしれません。
また、仏教を巡る蘇我氏と物部氏の争いに勝利した蘇我氏と共に、仏教を広めることにも力を注ぎました。推古2年(594年)には仏教興隆の詔(みことのり)を出し、大阪に四天王寺を建立するなど、その後の国づくりの礎を築いていきます。
聖徳太子の主な初期の活動
- 推古元年(593年):摂政に就任。四天王寺を建立。
- 推古2年(594年):仏教を広めるよう命令を出す。
- 推古8年(600年):最初の遣隋使を派遣。
- 推古9年(601年):政治の拠点となる斑鳩宮(いかるがのみや)を造営。
そんな中、聖徳太子の価値観を根底から揺るがす、大きな出来事が起こります。
大国「隋」からの屈辱!改革の直接的なきっかけ
「話にならない」と一蹴された最初の遣隋使
推古8年(600年)、聖徳太子は中国大陸を統一した巨大帝国「隋」に使者(遣隋使)を送ります。これが、日本にとって初めての公式な外交使節でした。
しかし、その結果は惨憺(さんたん)たるものでした。
隋の初代皇帝・文帝(ぶんてい)に、倭国の政治やしきたりについて説明したところ、「内容に道理がない。改めなさい」と、まるで子供を諭すかのように批判され、まともに相手にされなかったのです。
この出来事は、聖徳太子に大きな衝撃を与えました。
「このままでは、国として対等に扱ってもらえない。それどころか、いずれ隋に征服されてしまうかもしれない…」
この強烈な危機感こそが、聖徳太子を国内制度の大改革へと突き動かす、直接的な引き金となったのです。
【改革その1】冠位十二階(603年)- 家柄より才能を!
隋から帰国した使者の報告を受け、聖徳太子がまず着手したのが「冠位十二階(かんいじゅうにかい)」の制定でした。
制定した理由:豪族中心から「天皇中心」の国へ
当時の日本では、役人の地位は「氏(うじ)」と呼ばれる血縁集団、つまり家柄によって世襲されるのが当たり前でした。蘇我氏や物部氏といった特定の豪族が、代々重要な役職を独占していたのです。
これでは、いくら優秀な人物がいても、家柄が低ければ活躍の機会がありません。また、豪族が好き勝手に力を振るうため、天皇を中心とした国づくりが進みません。
そこで聖徳太子は、個人の才能や功績に応じて、天皇が直接「冠位(かんい)」という位を与える新しい制度を作りました。これは、豪族たちの力を抑え、天皇のもとに優秀な人材を集めるための画期的なシステムだったのです。
冠位十二階の具体的な内容
冠位は、全部で12のランクに分けられました。その名称には、中国の儒教(じゅきょう)で重んじられる徳目が使われています。
- 徳 (とく) – 紫
- 仁 (じん) – 青
- 礼 (れい) – 赤
- 信 (しん) – 黄
- 義 (ぎ) – 白
- 智 (ち) – 黒
これらの6つの徳目に、それぞれ「大(だい)」と「小(しょう)」を付けて、上から大徳、小徳、大仁、小仁…という順で12の位が作られました。位ごとに冠の色も定められ、誰が見てもその人のランクが分かるようになっていました。
面白いのは、徳目の並び順です。本来の儒教では「仁・義・礼・智・信」と並ぶのが一般的ですが、聖徳太子はあえてその順番を変えています。これは、隋の制度をただ真似るのではなく、独自の工夫を加えることで、日本の独立性を示そうとしたのではないか、と考えられています。隋から受けた屈辱をバネにした、聖徳太子のささやかなプライドが感じられますね。
聖徳太子ゆかりの法隆寺
聖徳太子が建立したとされる法隆寺は、世界最古の木造建築として有名です。冠位十二階や十七条憲法が作られた時代に、このような壮大な寺院が建てられていたことを思うと、当時の人々の情熱や技術力の高さに驚かされますね。
(引用元:光 @sannmasioyaki1 さんのツイート)
【改革その2】十七条の憲法(604年)- 役人の心構えを示した日本初の法律
冠位十二階を定めた翌年、聖徳太子はさらに「十七条の憲法(じゅうしちじょうのけんぽう)」を制定します。これは、日本で初めて作られた法律と言われています。
制定した理由:役人たちに「公」の意識を
冠位十二階が役人の「身分制度」に関する改革だったのに対し、十七条の憲法は、役人としての「心構え」や「行動規範」を示したものです。
これも、遣隋使の経験が大きく影響しています。国として一本筋の通った理念がなければ、対等な外交はできない。そのためには、まず国内の役人たちが、私利私欲を捨てて公(おおやけ)のために働くという意識を持つ必要があると考えたのです。
十七条の憲法、その気になる中身は?
内容は、仏教や儒教の教えを基本としており、1400年以上経った現代の私たちが見ても「なるほど」と頷ける普遍的なものばかりです。いくつか抜粋して、分かりやすく見てみましょう。
第一条:和を以て貴しとなす
(みんな仲良くすることが最も大切。派閥を作って争ってはいけません)第二条:篤く三宝を敬え
(仏・法・僧の三つの宝(仏教)を心から敬いなさい)第三条:詔を承けては必ず謹め
(天皇の命令には必ず従いなさい。君主は天、臣下は地のようなものです)第四条:群臣百寮、礼を以て本とせよ
(役人たちは、礼儀を基本としなさい。礼儀こそが国を治める根本です)第十条:忿りを絶ち、瞋りを棄て、人の違うを怒らざれ
(カッとなるのをやめ、人と意見が違っても怒ってはいけません。人それぞれ考え方は違うのですから)第十二条:国司国造、百姓に斂め取ることなかれ
(地方の役人は、勝手に民衆から税金を取り立ててはいけません。国に二人の君主はいないのです)第十七条:夫れ事は独り断むべからず。必ず衆と与に論うべし
(物事を一人で決めてはいけません。必ずみんなでよく話し合って決めなさい)
いかがでしょうか。チームワークの重要性、多様性の尊重、汚職の禁止、トップダウンとボトムアップのバランスなど、現代の組織運営にも通じる素晴らしい内容ですよね。
改革の成果と、その後の聖徳太子
「日出ずる処の天子」- 隋との対等な外交へ
国内の制度を整えた聖徳太子は、推古15年(607年)、満を持して第二回の遣隋使として小野妹子(おののいもこ)を派遣します。この時に持たせた国書が、あの有名な一文です。
「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々」
これは、「日の昇る国の天子(日本の天皇)が、日の沈む国の天子(隋の皇帝)にお手紙を送ります。お元気ですか」という意味です。「天子」という皇帝のみが使える称号を日本の天皇にも使ったことで、隋の二代目皇帝・煬帝(ようだい)は激怒したと伝えられています。しかし、結果的に隋は返礼の使者を日本に送っており、聖徳太子の狙いであった「対等な国交」の第一歩を記すことに成功したのです。
聖徳太子の晩年と、残したもの
隋との外交関係を確立した後の聖徳太子の活動は、あまり詳しく記録に残っていません。蘇我馬子(そがのうまこ)という実力者とのバランスを取りながら、推古天皇を支え、難しい舵取りを続けたことでしょう。
その後、仏教の経典の研究書を著したり、歴史書(国記・天皇記)の編纂を行ったりしたとされています。そして、推古30年(622年)、天皇になることなく49歳でその生涯を閉じました。
聖徳太子が行った改革は、すぐさま日本を完璧な中央集権国家に変えたわけではありません。しかし、彼が蒔いた「家柄ではなく個人の能力を重視する」「役人は公のために働く」「和を大切にし、話し合いで物事を決める」という種は、後の大化の改新(645年)や律令国家の形成へと繋がり、日本の国の形を決定づける大きな礎となったのです。
彼の生涯は、一人の天才が、国際社会の厳しい現実を直視し、国の未来のためにいかに大きな改革を成し遂げたかという、壮大な物語と言えるでしょう。
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