日本初の女帝から女帝への皇位継承!元正天皇の生涯と長屋王の変を徹底解説

歴史人物

こんにちは!日本史がお好きな皆さん、そしてこれから日本史を学びたい皆さん。今回は、奈良時代に活躍した一人の女性天皇、第44代・元正(げんしょう)天皇について、一緒に見ていきましょう。

元正天皇は、それまで誰も経験したことがなかった、「女帝から女帝へ」という異例の皇位継承を果たした人物です。彼女の治世には、誰もが知る歴史的な出来事が数多く起こりました。教科書にも登場する『日本書紀』の完成養老律令の編纂、そして「長屋王の変」といった大事件。これらがなぜ彼女の時代に起きたのでしょうか?

この記事では、元正天皇が即位した理由から、その人柄、成し遂げた業績、そして複雑な人間関係まで、初心者の方にもわかりやすく丁寧にご紹介していきます。彼女の生涯を知ることで、奈良時代のダイナミックな政治の動きが、きっと身近に感じられるはずです。

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元正天皇はなぜ即位したの?皇位継承の意外な背景

元正天皇が即位したのは、天皇の血筋を絶やさないための、苦肉の策でした。彼女の人生は、まさに皇族としての責任に翻弄された歴史と言えるでしょう。

氷高皇女(ひだかのひめみこ)の誕生と波乱の幼少期

元正天皇は、天武(てんむ)天皇9年(680年)に、父・草壁皇子(くさかべのみこ)と、母・阿閇皇女(あへひめみこ、後の元明天皇)の間に長女として生まれました。幼い頃の名前は氷高皇女です。当時の皇位継承の中心人物だった草壁皇子を父に持ち、まさに王道の血筋でした。

しかし、父・草壁皇子は天皇になる前に病で亡くなってしまいます。そのため、祖母である持統(じとう)天皇が即位し、その後、弟である軽皇子(かるのみこ)文武(もんむ)天皇として即位します。

順風満帆に見えた皇位継承の道は、再び波乱を迎えます。文武天皇がわずか25歳という若さで崩御してしまったのです。この時、文武天皇の息子、つまり次期天皇となるはずだった首皇子(おびとのみこ、後の聖武天皇)は、まだ14歳と幼すぎました。政治を安定させるためには、経験豊富な大人が天皇になる必要がありました。

日本史上初!女帝から女帝への皇位継承

そこで、白羽の矢が立ったのが、文武天皇の母であり、首皇子から見れば祖母にあたる阿閇皇女(元明天皇)でした。彼女は皇室のつなぎ役として即位し、首皇子が成長するのを待ちます。

そして、霊亀(れいき)元年(715年)、元明天皇は娘である氷高皇女に皇位を譲ります。この時、元明天皇は54歳。当時の平均寿命を考えると「老齢」と判断されたようです。こうして、氷高皇女は第44代・元正天皇として即位しました。日本史上、「女帝から娘である女帝へ」の皇位継承は、前例のない出来事だったのです。

譲位の詔には、元正天皇の人柄を称える言葉が残されています。「天の与える寛仁にして、沈静婉麗にして、華夏載せ佇り」とあり、「慈悲深く落ち着いた人柄で、あでやかで美しい」と絶賛されています。この言葉から、元正天皇が周囲からいかに信頼されていたかがうかがえます。

元明天皇についてはこちらで

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元正天皇の主な業績と治世の出来事

元正天皇の治世はわずか9年ほどでしたが、その間に日本の歴史を大きく動かす出来事が目白押しでした。一つずつ見ていきましょう。

1. 養老律令(ようろうりつりょう)の編纂

養老元年(717年)、藤原不比等(ふじわらのふひと)を中心に、新しい法律である養老律令の編纂が始まりました。これは、それまであった大宝律令(たいほうりつりょう)をより分かりやすく、時代に合わせた内容に改めるためのものでした。

しかし、残念ながら中心人物だった藤原不比等が養老4年(720年)に亡くなってしまい、編纂は中断してしまいます。この養老律令が実際に施行されるのは、さらに40年後の天平宝字(てんぴょうほうじ)元年(757年)のことでした。この法律は、その後の明治維新まで日本の政治の根幹を支えることになります。

2. 三世一身法(さんぜいっしんのほう)の公布

養老7年(723年)、元正天皇は「三世一身法」という新しい法律を公布します。これは、急増する人口に対し、国民一人ひとりに与える田んぼ(口分田)が足りなくなってきた問題を解決するためのものでした。

この法律は、新しく田んぼを開墾した人に対して、「その田んぼを3世代にわたって私有することを認める」というものでした。これにより、開墾意欲が高まり、一時的に田んぼの面積は増えました。

しかし、開墾した土地が永久的に国に戻らないため、最終的には公地公民(土地も人民もすべて天皇のもの)という律令制の原則が揺らぐことにつながりました。この動きが、後の荘園(しょうえん)制度の始まりを促したとも言われています。

3. 日本書紀(にほんしょき)の完成

養老4年(720年)、日本の正史である『日本書紀』が完成しました!これは、日本の歴史や神話などをまとめた、とても重要な歴史書です。元正天皇の時代に編纂が終わり、現代の私たちが日本の古代史を知る上で、欠かせない貴重な資料となっています。

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歴史的大事件「長屋王の変」の真相に迫る

元正天皇の治世で最も注目すべき大事件が、「長屋王(ながやおう)の変」です。これは、当時の皇族と貴族の権力争いが原因で起こった悲劇でした。

長屋王はどんな人物だった?

長屋王は、天武天皇の孫にあたり、当時の皇族の中でも中心的な存在でした。養老4年(720年)に藤原不比等が亡くなると、右大臣、そして左大臣として、政治のトップに立ちました。彼は、ただ家柄が良いだけでなく、優れた才能と実行力を持った人物でした。

東北の蝦夷(えみし)や南の隼人(はやと)の反乱への対策、飢饉(ききん)や疫病の際の税の免除、さらには役人の勤務評定を厳しく行うなど、律令体制を立て直すために様々な改革を行いました。彼の厳しい政治姿勢は、多くの官人から反発を買うこともあったようです。

藤原四兄弟との対立と事件の真相

長屋王と対立したのは、藤原不比等の息子たちである「藤原四兄弟」でした。彼らの対立は、聖武天皇の即位をきっかけに激化します。

聖武天皇の母は、藤原不比等の娘である藤原宮子(ふじわらのみやこ)でした。皇族出身ではない宮子を、藤原氏は何としても特別な地位につけたいと考えます。そこで、聖武天皇に「大夫人(だいぶにん)」という特別な称号を与えようとしましたが、長屋王は「公式令」という法律に従い「皇太夫人(こうたいぶにん)」とすべきだと主張します。この対立は、長屋王の主張が正しいにもかかわらず、藤原氏の不満を大きく募らせる結果となりました。

さらに、聖武天皇には皇太子がいましたが、すぐに亡くなってしまいます。このままでは、長屋王が皇位を継ぐ可能性が高まっていました。藤原氏にとって、それは権力を失うことを意味します。焦った藤原四兄弟は、神亀6年(729年)、「長屋王がひそかに国を傾けようと企んでいる」という密告を利用し、長屋王の邸宅を軍勢で取り囲みます。

最終的に、長屋王とその妻、子供たちは自ら命を絶つことになります。これが「長屋王の変」です。この事件の後、藤原不比等の娘であり、聖武天皇の妻である光明子(こうみょうし)が、日本初の「非皇族出身の皇后」となります。これは、日本の政治が皇族中心から、藤原氏のような有力貴族中心へと大きく舵を切るきっかけとなった、歴史的な大事件でした。

長屋王邸跡は現在、奈良市内のデパートがある場所にあり、発掘調査により、その広大な敷地から当時の権勢の大きさがうかがえます。

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まとめ:知られざる元正天皇の功績と教訓

元正天皇は、聖武天皇の陰に隠れがちですが、「聖武天皇の治世の初期は、ほとんど元正上皇が政治を行っていた」と言われるほど、重要な役割を果たしていました。

彼女は、安定した政治を目指し、律令国家の維持に尽力しました。しかし、長屋王の変に象徴されるように、時代は皇族の力だけで政治を動かすことが難しくなってきていたのです。この事件は、実力や家柄に自信があった長屋王が、周りの支持を得られず孤立してしまった悲劇でもあります。どんなに優れた人物でも、周囲への配慮を怠れば、思わぬ落とし穴にはまってしまう。これは、いつの時代にも通じる教訓かもしれません。

元正天皇の生涯と、その時代に起こった事件を知ることで、奈良時代のダイナミックな政治の変遷をより深く理解できるでしょう。ぜひ、歴史の教科書をもう一度開いて、当時の人々の生き様に思いを馳せてみてください。

 

参考文献:『続日本紀』、奈良市教育委員会ウェブサイトなど

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