徳川家康は豊臣秀吉政権下でどの様に実力を向上させたか

歴史人物

徳川家康は織田信長亡き後の騒乱状態の中で着実に領地を広げ、もはや豊臣秀吉を除いては、ダントツの実力を有する大大名となります。この状態のまま、豊臣政権下で着実に地歩を固めていきます。

当然、対立者もいますがなかなか付け入るスキを与えないまま、秀吉の死を迎え、関ヶ原の戦いになります。

この間の徳川家康の着実な足取りを学び、一旦、実力をつけた者がどのようなふるまいをすべきかを学んでいきたいと考えます。

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豊臣秀吉政権下での重大事件はこんなものが

徳川家康は天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いで、豊臣秀吉と互角に対峙で切る実力を見せ、更に、徳川家康に従う諸将も多くあることを示しました。

戦国の中ごろまでであればそのまま最終戦争に突入したかもしれません。しかし、たぶん世情も戦国の世に飽きてきたのかもしれません。

この時期は徳川家康にとっては領地の地震、大雨の影響で領国経営が苦しい状況でした。田畑の荒廃も進行し、継続的な戦闘は難しくなっているという事情もあったようです。

こんな状況で徳川家康は豊臣秀吉に臣下の礼をとることになります。戦って勝てないわけではないが、最後はどうなるか分かりません。

案外大昔立てた誓い「厭離穢土、欣求浄土」が頭の中をかすめたかもしれません。意外とまじめな人ですから。

豊臣秀吉は、そんな徳川家康に相当気を使って接します。

天正14年(1586年)正三位に叙任。浜松から駿府城に移転します。

天正15年(1587年)従二位・権大納言に叙任。関東・奥両国の監視を託されます。左近衛大将、左馬寮御監に任じられます。

北条氏にも豊臣に恭順するよう斡旋もしています。いわばウインウインの関係です。北条氏は最後まで抵抗してしまいますが。

天正18年(1590年)駿河、遠江、三河、甲斐、信濃の5か国から、武蔵、伊豆、相模、上野、上総、下総、下野と常陸の一部に移封されます。これによって120万石から250万石に加増されます。

これについては、秀吉が家康を遠ざけたかった、経営の難しい関東で消耗させたかったという憶測もありますが、純粋に関東、奥州の抑えを盤石にしたいとの願いがあったと思います。

そのように、秀吉は家康を頼りにしていたのでしょう。そのぐらいの重みがある存在なのです。

朝鮮出兵

文禄元年(1592年)と慶長2年(1596年)の2回秀吉は朝鮮出兵をしますが、幸い家康は名護屋までは行きますが、朝鮮半島へは渡らずに済みました。

一般的に東国の大名はいかずに済んだので、そういう意味では幸いだったようです。

豊臣秀次事件

文禄4年(1595年)秀吉の後継者であり関白についていた豊臣秀次を解任、出家させ。更に切腹させて首をさらし。妻子を含めて根絶やしにした事件です。

定説では、この2年前に淀殿に秀頼が生まれたため、将来のことを心配して争いの種になる秀次の系統を根絶やしにしたということになっています。

結果的には、このことが豊臣政権の致命傷になります。たとえ、最終的に秀次と秀頼が争うことになったとしても、豊臣政権は続く可能性があります。

選択肢を自分の力で排除してしまったおかげで、徳川政権の芽を生み出してしまうのです。

秀吉がやったように、織田家の跡目争いに介入して、自ら天下人になったように、家康も秀吉亡き後に同じようにふるまえば可能性もあったでしょうが、それはそれなりに難しい仕業です。

本筋は、豊臣のどちらかが残ることになるのです。

もしくは、秀吉は秀頼が成人するまで自分は見届けることができると思っていたのでしょうか。

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豊臣秀吉の死去

慶長3年(1598年)秀吉は病に倒れます。このため、自らの手でなせることはほとんどなくなってしまいました。せいぜい五大老・五奉行の制度を作って、豊臣秀頼を盛り立てる制度を作ります。

しかしこれはしょせん気休めです。五大老がお互いにけん制することを期待していたのでしょうが、真剣に豊臣家の生末を心配する大名は、徳川家康、毛利輝元、宇喜田秀家、前田利家、上杉景勝のうちせいぜい前田利家ぐらいだったでしょう。

しかも所領は圧倒的に徳川家康の方が大きいのですから。

秀吉が亡くなった後は、一応申し合わせはあるものの、そこは実力がものをいうものです。所詮天下は回り物なのです。

五奉行がいくら秀吉の言い伝えを守るようにしたところで、心底、秀吉に心酔して又は引き立ててもらった大名以外は、従う必要などないのです。

徳川家康は五大老の筆頭としていわば自分のやりたいように物事を進めていきます。そこが秀吉子飼いの五奉行からすれば、いちいち、問題ということになるのです。

それでも、家康は秀頼を立てて、それなりに礼を尽くしてふるまっているのです。秀吉の死によって体制は決したので、おとなしく、していれば自分のところに集まってくると家康は考えていたと思います。実際その通りに進行していきます。

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そして関ヶ原の戦いへ

慶長5年(1600年)会津の上杉景勝に叛意ありということになり、会津征伐に向かうことになります。これはあくまでも朝廷と豊臣氏から託された会津征伐というところです。

そして家康一行が関東につき、小山に向かうころに、石田三成が毛利輝元を擁し徳川家康を討つために決起します。

これは、強大化する徳川家康を倒すために、上杉方の直江兼続と石田三成が仕組んだ筋書きと言われています。

何しろ家康はこの頃で250万石、次に大きいのは毛利輝元の120万石ですから、五大老といっても相当勢力に開きがあるのです。

このように筋書き通りに運んだのですが、ある意味失敗と言えるのは、秀吉恩顧の大名が石田三成に反発して、徳川家康についてしまうことです。それだけ、家康の包容力が大きかったとも言えます。

そして、討伐の大軍は引き返し、家康は東海道を、徳川秀忠は中山道を西に向かいます。ここでは逆に、家康側に誤算が生じます。秀忠の本隊が上田で散々真田軍にてこずり、決戦の時家康本隊に間に合わなかったことです。

この戦いは、豊臣と徳川の戦いと言われていますが、実態は、豊臣政権の中の勢力争いであることです。従って、豊臣秀頼の配下はこの戦いには静観の姿勢をとっていることです。

ここが、石田三成の誤算と考えられるでしょう。それでも十分な準備をしたおかげでかなりのところまで、互角に近い戦いにしたのは、石田三成の力量によるところでしょう。結果は、皆様ご承知の通りです。

しかし、この戦いに豊臣家が参加しなかったことで、豊臣氏は直接の領地を失うこともなく、それまでの権威を保つことができる状態であったのです。

徳川家康は実質上の天下人としての地位、豊臣氏は現存する豊臣政権の要として西国諸国を支配している状態の、二重権力構造になります。

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徳川家康は豊臣秀吉政権下でどの様に実力を向上させたかのまとめ

大大名になってからの徳川家康の動き方を説明してきました。このように徳川家康も無理をする必要がなく、実力が蓄えられるごとに、慎重に動いていけば、自分に天下が回ってくることがわかると思います。

それにしても、関ヶ原の戦いのときは危なかったと思われます。最初から仕掛けられた戦いであったため、本当は不利なのですが、豊臣恩顧の大名が家康側についたのが幸いでした。

かくして家康は天下人としての体制づくりに進むことになります。

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