尾去沢鉱山事件で井上馨は汚職であわや捕まるところで

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井上馨は幕末の志士として活躍し、明治になっても外務大臣で条約改正に尽力したり、鹿鳴館時代を創ったりと活躍した方ですが。明治の元勲の中にあっては経済的感覚が優れているという特徴がありました。それが災いして、尾去沢鉱山、尾去沢銅山事件で窮地に追い込まれます。

岩倉使節団が海外調査に出かけたとき、大久保利通大蔵卿も使節団に加わりますので、井上馨は大蔵大輔として大蔵省を実質仕切る立場になります。

当時は「今清盛」とも言われたそうで、渋沢栄一を部下にもって様々な改革をしています。しかしながら、同時にとんでもないこともしています。

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尾去沢鉱山(銅山)が問題となった理由は

尾去沢鉱山は幕末には南部藩の所有物となっていました。その時の南部藩は財政がひっ迫しており、御用商人村井茂兵衛から南部藩は5万5千円という借金をしていました。

村井茂兵衛はこの借金の方に尾去沢鉱山の経営権を手に入れることになりました。そして、その見返りに藩に上納金を納めるというシステムであったようです。

明治の代になり南部藩の債務を新政府が引き継ぐことになります。その時の清算として70万両を朝廷に支払うことになりました。

そのような金額を南部藩が用立てすることができないので、南部藩は村井茂兵衛に相談し、村井はイギリス商人から外債の取り付けを持ち込みます。

南部藩は了解したものの、態度を翻したおかげで、違約金2万5千両が発生してしまいます。

仕方なく、村井はこれを南部藩のために用立てますが、当時の慣習に基づき、2万5千両を奉内借候(ないしゃくたてまつりそうろう)という証文を南部藩に残しておきます。

その時の慣習として武士が町民から借金をするのは憚られるので、逆に藩が町人に貸し付けたような証文を提出することになっていました。

形式的には南部藩が村井に貸した形になっていますが、本来は逆のものです。

やがて、イギリス商人から借金の返済が明治政府に求められます。それを調査した大蔵省は旧南部藩と村井を調査することになります。

大蔵省は当時の慣習は知っておりましたが、村井に借金の返還を求めることになります。

村井も例えば返金を年賦にしてほしいなどと様々な条件を提示して交渉に臨みますが、大蔵省は全く効く耳を持たず、1871年3月、村井の尾去沢鉱山の経営権、家財一切を没収することになります。

村井はこの後も、秋田裁判所、司法省裁判所に訴えますが。1872年6月失意の中で亡くなります。

没収したはずの尾去沢鉱山の経営権はどこへ行った

大蔵省は没収した尾去沢鉱山を、長州藩出身の井上馨の知人岡田平蔵に1872年4月に払い下げをしてしまいます。しかも払い下げ金額は3万6千8円、15年賦無利子という破格の条件です。

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この事件はどのようにして表に出たのか

1872年12月村井の遺族は尾去沢鉱山の採掘権の返還を求めて、司法省検事局に訴えを起こします。そして当時の司法卿江藤新平の目に留まります。

当時大蔵大輔の井上馨と司法卿の江藤新平はことごとく対立していました。司法の独立を主張し体制の整備を図ろうとする司法省財源難のためにこれを押さえようとする大蔵省の対立です。

江藤はこの件を徹底的に調べるように命令を出します。司法省の島本仲道司法大丞兼大検事警保頭です。そしてこのような報告をしています。

大蔵省は奉内借とした受取書を貸付金と虚偽の申し立てをして取り立てようとした

村井には全く責任はない

大蔵省は森林財産を使えばよいのに村井の財産を差し押さえる必要はなかった

大蔵省は差し押さえ財産を公売の手続きもせず大蔵大輔井上馨の近親者に払い下げ、村井の5年年賦を取り上げずに岡田には20年年賦としているのは両者の関係があるから

ということで井上馨を拘引しようとします。

しかしながら、留守を任された三条実美は決断力がなくのらりくらりするだけでした。

予算問題が表面化して井上馨と渋沢栄一は大蔵省を辞任する

そうこうしているうちに、大蔵省の予算問題がますますこじれていて、だんだん大蔵省の分が悪い方向に転換してきました。そして、井上馨と渋沢栄一は政府に建白書を提出して辞表を出してしまいます。1973年5月に辞任することになります。

その後、井上馨は8月にはこともあろうに岡田平蔵、増田孝らを連れて尾去沢鉱山を訪問して、江藤新平を挑発しています。なんと、鉱山の入り口に従四位井上馨所有の看板まで立てています。

どういう神経でしょうね。これでますます江藤は燃えて来たでしょう。

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大久保利通、木戸孝允は問題の解決のため急遽帰国する

海外で事件を聞きつけた大久保利通、木戸孝允が急遽帰国することになります。この件の他に山縣有朋が関係する一つの事件があったのですが。

あれほど、何もするなと言って出かけたのにと両者は思っていることでしょう。

大久保利通、木戸孝允はいわゆる指揮権発動で井上に対する取り調べを取りやめさせます。そして、この事件のもみ消しに奔走することになります。

そのうち征韓論の問題が発生してきて、この問題はだんだん影が薄れていきます。

1875年に判決が出て、井上馨、渋沢栄一も責任を問われる

しかし判決は2年後の1875年12月に出ることになりました。

村井を取り調べた大蔵省の川村は有罪。

村井の遺族には借用書の2万5千円が返還される。

井上馨は懲役2年ただし代わりに罰金30円。

渋沢栄一にも罪二等を減じて無罪ということになりました。

渋沢栄一はこの問題の埒外にあったと思われますが、監督責任を問われたのだと思われます。

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尾去沢鉱山事件で井上馨は汚職であわや捕まるところでのまとめ

このように明治初期にはまだおおらかというのか世の中が定まらないというのか、いろいろな事件が起こるものです。でも考えてみれば、数年前まで戦争をしていて、やっとのこと政府を作ったところですから、ガタガタするのでしょう。

しかも、この時、井上馨も政府高官と言ってもまだ30代ですから、結構、ひどかったでしょうね。

この事件の最大の被害者村井茂兵衛は72年の6月に亡くなることになりますが、その直前、茶会を催し,知友へ永別の辞を述べています。死因については不明となっていますが何か気するところがあったのでしょう。

そして死の床で次の歌を遺します。

夢とのみ 聞きし浮世も 今更に 死ぬるばかりは まことなりけり

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