皆さんは「井上準之助(いのうえじゅんのすけ)」という名前を聞いたことがありますか? 彼は昭和初期の日本で、時の内閣(浜口内閣と第二次若槻内閣)で大蔵大臣(現在の財務大臣)を務めた重要な人物です。
彼の名前は、「金本位制(きんほんいせい)」への復帰、いわゆる「金解禁(きんかいきん)」という政策と、それに伴う「緊縮財政(きんしゅくざいせい)」路線と深く結びついています。しかし、これらの政策は、その後の日本経済に大きな影響を与え、中小企業や農民層を非常に厳しい状況に追い込むことになりました。
そして、彼の政策は軍部、特に海軍からの強い反発を招き、最終的には彼の暗殺という悲劇的な結末へと繋がってしまいます。
この記事では、井上準之助がなぜ暗殺されなければならなかったのか、その原因となった「金解禁」とは一体どのような政策だったのか、そして当時の日本社会が抱えていた問題と彼の政策がどのように絡み合ったのかを、歴史に詳しくない方にもわかりやすく、丁寧にお話ししていきます。激動の昭和初期の日本を一緒に見ていきましょう。
井上準之助はどのように暗殺されたのか?事件の瞬間を追う
まずは、井上準之助が暗殺された当時の状況を詳しく見ていきましょう。事件が起きたのは、1932年(昭和7年)2月9日のことです。
この日、前大蔵大臣であり、当時、民政党の総務委員長を務めていた井上準之助は、東京の本郷駒込小学校で演説を行う予定でした。
井上を乗せた自動車が、小学校の通用門に入ろうとしたその時です。待ち伏せていた犯人の小沼正(おぬままさる)が突然、懐からピストルを取り出し、井上の腰に銃口を当てて3発を発射しました。
突然の凶行に周囲は騒然となりましたが、小沼はすぐに周囲の人々に取り押さえられ、ステッキで殴られて気絶したところを、怒った群衆から激しいリンチを受けました。これは当然の反応だったでしょう。その場で警察に逮捕された小沼に対し、井上はすぐに東京帝国大学医学部附属病院(現在の東京大学医学部附属病院)に搬送されましたが、残念ながら間もなく息を引き取りました。
浜口雄幸(はまぐちおさち)首相と井上準之助大蔵大臣は、まるでペアのように協力し、当時の日本の経済政策を推進しました。特に、世界恐慌の波が押し寄せる中で、財政健全化を目指すという困難な道のりを共に歩んだことから、彼らの関係は非常に深かったと言われています。
なぜ狙われたのか?井上準之助暗殺の背後にある理由
井上準之助がなぜこのような悲劇的な最期を遂げなければならなかったのでしょうか? その理由は、彼が推進した経済政策と、当時の日本が抱えていた社会情勢に深く根ざしています。
大蔵大臣としての経済政策:金解禁と緊縮財政
井上準之助は、1929年7月から1931年12月まで、浜口内閣とそれに続く第二次若槻内閣で大蔵大臣を務めました。この時期、彼が最も力を入れたのが、「金本位制への復帰」、すなわち「金解禁」政策と、それに伴う「緊縮財政」路線でした。
しかし、この金解禁政策は、非常にタイミングの悪い時期に実施されてしまいました。というのも、1929年10月にアメリカで「世界恐慌」が始まったばかりだったのです。この未曽有の世界的な経済危機と、井上のデフレ(物価が下がる現象)を促進する政策が重なった結果、日本国内は深刻な不況「昭和恐慌」に陥り、中小企業や農村は極度に疲弊してしまいました。
軍部や右翼との対立の深化
不況が深刻化すると、農作物の価格が暴落し、多くの農民が苦しい生活を強いられました。実は、当時の軍部、特に陸軍の下級将校には農村出身者が多かったため、彼らは政府の経済政策に強い不満を抱くようになります。この不満が、やがて右翼勢力と結びつき、政府要人へのテロへと繋がっていったと言われています。
さらに、井上準之助が実施した緊縮財政は、軍事費の大幅な削減を伴いました。これにより、軍部は「予算を削られた」という強い恨みを政府、特に大蔵大臣である井上に対して抱くことになります。これらの要因が複雑に絡み合い、井上準之助は軍部や右翼勢力から命を狙われる標的となってしまったのです。
井上準之助の暗殺は、実は「血盟団事件(けつめいだんじけん)」と呼ばれる一連のテロ事件の一部でした。血盟団は、井上準之助や財界の重鎮である団琢磨(だんたくま)などを「一人一殺」の方針で暗殺し、クーデターによって天皇中心の国家を作ろうと主張する過激な右翼団体でした。彼らは陸海軍の青年将校とも繋がりがあり、当時の社会の不安定さを象徴する出来事でした。
「金本位制」と「金解禁」とは?経済初心者にもわかりやすく解説
井上準之助の政策を理解するためには、「金本位制」と「金解禁」という言葉の意味をきちんと押さえておくことが大切です。専門用語なので少し難しく感じるかもしれませんが、ご安心ください。私なりにわかりやすく説明しますね。
金本位制とは?「お金の価値を金で保証する仕組み」
まず「金本位制」とは、簡単に言うと、国の通貨(日本なら円)の価値を、その国が保有する金の量と結びつける制度のことです。
例えば、「100円は金〇グラムと交換できますよ」と、あらかじめ決めておくのです。こうすることで、円の価値は金に裏付けされ、非常に安定します。円を持っている人は、いつでも決められた量の金と交換できるわけですから、安心して円を使うことができますよね。第一次世界大戦が始まる前には、世界の主要な国々の多くがこの金本位制を採用していました。
この制度の下では、政府が紙幣を発行できるのは、国が持っている金の量に応じてのみでした。つまり、金がたくさんなければ、好き勝手にお金を刷ることはできなかったのです。
第一次世界大戦と金本位制の一時停止
しかし、この安定した仕組みは、1914年に始まった第一次世界大戦によって大きく揺らぎます。戦争が始まると、各国は軍事費をまかなうために、大量の武器や物資を海外から買い込む必要が出てきました。その支払いには金が使われることが多かったため、各国からどんどん金が海外へ流出してしまう事態に陥ったのです。
このままでは国の金が底をついてしまうため、日本を含む多くの国は、金の国外への流出を防ぐために「金の輸出禁止」に踏み切りました。これは事実上、金本位制を一時的に停止する措置でした。
なぜ日本だけが金本位制復帰に遅れたのか?
第一次世界大戦が終わると、世界の経済は徐々に安定を取り戻し、多くの国が再び金本位制に復帰(金の輸出を解禁)していきました。しかし、日本だけは、この流れに乗り遅れていました。
その理由はいくつかあります。まず、日本は戦後、深刻な不況に襲われていました。さらに追い打ちをかけたのが、1923年の関東大震災です。震災からの復興のために外国からの輸入品が増える一方で、日本から輸出できるものが少なく、貿易赤字が続いていました。
このような状況で金の輸出を解禁してしまうと、日本の持っている金がさらに海外に流出してしまい、経済が大混乱に陥る恐れがありました。そのため、日本政府は頑なに金の輸出禁止政策を続けていたのです。
しかし、主要国の中で日本だけが金本位制に戻らないのは国際的な信用問題にも繋がり、各国からも金解禁への復帰が強く求められていました。そこで、当時の浜口雄幸(はまぐちおさち)首相は、この難題を解決するために、井上準之助を大蔵大臣に据え、金解禁に舵を切ることを決断したのです。
金解禁の決断:旧平価での復帰が招いた円高不況
金解禁を行うにあたって、非常に重要な決定がありました。それは、「円と金の交換レート」をいくらに設定するか、ということです。
金の輸出が禁止される前、日本円とドルの交換レートは、おおよそ「100円 = 金75グラム = 49.85ドル」とされていました。ところが、第一次世界大戦中から戦後にかけて、日本円は国際的に価値が下がり(円安になり)、「100円 = 約46.5ドル」という実勢価格になっていました。
もし、この実勢価格(約46.5ドル)で金解禁を行っていれば、経済への混乱は少なかったかもしれません。しかし、井上準之助は日本の国際的な威信を重視し、あえて元の高いレートである「100円 = 49.85ドル」で金解禁に踏み切りました。これは、1930年1月のことでした。
この「旧平価(きゅうへいか)解禁」という政策は、円の価値を無理やり引き上げようとするものでした。そのために、日本銀行は政策金利を上げたり、市場に出回るお金の量を減らしたりして、意図的に円高に誘導しようとしたのです。
結果として、円の価値は上がりましたが、これは国内では物価や賃金が下がるデフレ(デフレーション)状況を引き起こしました。つまり、「円高不況」が起こってしまったのです。物価が下がるということは、企業が作った商品の値段も下がり、利益が出にくくなります。体力のない中小企業は次々と倒産し、強い企業だけが生き残るという、どこか現代の不況にも似た状況が生まれました。
さらに悪いことに、この日本のデフレ政策は、1929年10月の「暗黒の木曜日」に始まる世界恐慌と重なってしまいました。世界経済が大混乱に陥っている中で、日本だけがさらにデフレを加速させる政策を取ったのですから、日本経済は「空前の不況」へと突き進むことになります。これが、日本史における「昭和恐慌」と呼ばれる大不況です。
井上の大きな誤算は、このアメリカの株価暴落とそれに続く世界恐慌を「一時的なもの」と軽視し、その影響を十分に予測できなかったことにあると言われています。このため、日本の不況は極度に深刻化し、これが前述の浜口雄幸首相の暗殺未遂事件(1930年)や、井上準之助元大蔵大臣の暗殺事件(1932年)という悲劇に繋がっていったのです。
浜口雄幸の暗殺未遂事件については
金解禁とその後の日本経済
井上準之助の金解禁政策は、結果的に日本経済を大混乱に陥れました。しかし、この状況は長くは続きませんでした。
1931年12月、犬養毅(いぬかいつよし)が新たな内閣総理大臣に就任すると、すぐに高橋是清(たかはしこれきよ)が再び大蔵大臣に就きます。高橋は、就任するやいなや、まず金の輸出を再び禁止し、さらには紙幣を大量に発行する政策に切り替えました。
これにより、100円が49.85ドルだった為替レートは、1934年には「100円 = 29ドル」まで、なんと約40%も円安に誘導されることになります。とてつもない円安政策ですね。
しかし、この急激な円安誘導は、日本経済に劇的な変化をもたらしました。日本の輸出品は国際市場で非常に安く買えるようになったため、輸出が大幅に増加します。その結果、1931年に11億円だった輸出額は、わずか3年後の1934年には21億円にまで回復し、日本は世界恐慌からいち早く脱出することに成功したのです。
まとめ:井上準之助暗殺と金解禁が語る昭和初期の日本
井上準之助が暗殺された背景には、彼が推進した金解禁政策が、世界恐慌と重なる最悪のタイミングで、かつ旧平価という高すぎるレートで実施されたことによって、日本に深刻なデフレと昭和恐慌をもたらしたことがありました。この経済的苦境が、特に農村出身者が多かった軍部や、国家改造を目指す右翼勢力の不満を爆発させ、テロという形で現れたのです。
犯人の小沼正は単独犯ではなく、血盟団という過激な右翼組織による「一人一殺」の方針に基づいた計画的なテロでした。武器の調達から暗殺計画まで、すべて血盟団が関与していたとされています。このようなテロ組織がなぜ当時の政府によって十分に規制されなかったのか、疑問に思うかもしれません。しかし、それは当時の政府に対する国民の強い不満、そして軍部の台頭という、複雑な時代背景があったからだと言えるでしょう。
小沼正は無期懲役の判決を受けましたが、1940年には恩赦で釈放され、戦後まで右翼活動を続けて生きたという事実は、現代の私たちにとっては少し釈然としないかもしれません。しかし、この出来事は、昭和初期の日本がどれほど政治的、経済的に不安定な状況にあったかを如実に物語っています。
井上準之助の暗殺は、単なる一人の政治家の死ではなく、当時の日本社会が抱えていた深い矛盾と、その後の軍部の台頭、そして第二次世界大戦へと向かう日本の歴史の大きな転換点の一つだったと言えるでしょう。
この記事を通して、皆さんの日本史への理解が少しでも深まれば幸いです。
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