古河市兵衛が渋沢栄一の第一国立銀行の危機に際して取った行動は

歴史人物

渋沢栄一は1863年(明治6年)大蔵省を辞職します。そして第一国立銀行を創立します。しかし、この銀行は最初の段階で危機を迎えることになるのです。

この時渋沢栄一が頭取をしていましたが、小野組の古河市兵衛が申し出たことで危機を脱出するのです。この顛末と古河市兵衛のその後について解説します。

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第一国立銀行の経営危機に古河市兵衛と渋沢栄一はどう行動したか

明治政府の殖産興業政策の推進については急務でしたが、大蔵省にあって渋沢栄一はこのため、国立銀行条例をつくり初めての株式会社制度による銀行をつくることになるのです。

この第一号に参加したのが、かっての両替商であった三井組と小野組です。彼らは100万円ずつ出資して、資本金250万円で設立することになります。

今では小野組と言ってもピンとこないかもしれませんが、江戸時代には京都で両替商として重きをなしていた存在です。

三井組と小野組からそれぞれ頭取を出して、大蔵省を辞めた渋沢栄一が総監役として付くことになります。6月11日設立総会、7月20日本店、横浜、大阪、神戸の三支店で営業を開始します。

第一国立銀行の経営危機はこのように始まった

小野組は経営拡大主義のため多くの借入金がありました。そこらへんが三井組とは違ったところでした。

明治政府は当初無利子無担保で国庫金を預けて運用したいたのですが、国庫金の使い道を不安に思った大蔵卿の大隈重信が、借入金に担保を要求するようになったのです。

このため小野組は巨額の債務があるため維持できなくなってしまい、破綻することになったのです。

この時第一国立銀行も小野組に出資金100万円を超える百数十万円を貸していてため、大損害を被ることになったのです。

経営危機に際して古河市兵衛はどのように対処したのか

古河市兵衛は小野組の米穀部と鉱山部を支配していましたが、当時小野組の所有する米穀全部、鉱山弁霧を第一国立銀行に提供し、しかも自分の給料も貯金も全て提供すると申し出たのです。

「生まれたばかりの銀行を潰し、日本の将来を台無しにしてはならぬ。私は無一文になっても構わぬ」そのような心意気だったそうです。

普通はこんな機会には、自分の財産はかくして切り抜けようとする人物が多いのですが、これには渋沢栄一も大いに意気に感じたようでした。

このこともあり、第一国立銀行の損失は巨額にもならず、は小野組の出資分を減額して存続することができたのです。

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それ以降の古河市兵衛の足取りはどの様だったか

さすがに古河市兵衛はそれ以降鳴りを潜めていました。それはそうですよね。ほぼ全財産を失うことになったのですから。しかし後を期してしばらく資金作りに邁進していたとも言われています。

古河は鉱山事業に魅力を感じたようで、秋田県の阿仁鉱山、院内鉱山の払い下げを申請したりしていますが、うまくいかなかったようです。

小野組倒産から一年後の1875年(明治8年)に新潟県の草倉鉱山の払い下げに成功することになります。

これにはちょっとしたテクニックを使っています。小野組時代から縁があった相馬藩主を名義人をとして、古河市兵衛がその下請けとなって鉱山経営をする手法です。

多分信用問題のために藩主を使ったほうが良いと考えたのでしょう。これで鉱山経営について自信を深めたようです。

古河市兵衛、足尾銅山を買収する

1877年(明治10年)草倉鉱山と同じ手法で、相馬家を名義人としてたてて足尾銅山を買収することとなります。その時、渋沢栄一も前回の第一国立銀行の件があり古河市兵衛のために一肌脱ぐことになります。

しかし、足尾銅山は江戸時代にかなり採掘がされているため、もはや採掘の可能性は低いと考えられていました。

しかし古河市兵衛は足尾銅山の生産性が落ちているのは、採掘方法と経営状態が悪いことによるものと考えていました。ここら辺が目利きと経験がものをいうのかもしれません。

足尾銅山の経営状況はしばらく低迷が続く

古河市兵衛が見込んだとおり、足尾銅山の経営状況はかなり悲惨だったようです。採掘を行う山師集団との折り合いがつかず現場での反発などがあったようです。

銅山の経営責任者も長続きせず4人も変わる状態でした。やっと親戚筋の責任者を指名してあたらせる始末です。こんな状態が4年も続いたようです。本当は心配だったのではないでしょうか。

大鉱脈を掘り当てることで屈指の銅山に成長する

1881年(明治14年)待望の大鉱脈を掘り当てることになります。その後も鉱脈は次々見つかり瞬く間に大銅山に急成長することになります。

鉱山経営に加えて、銅山を中心として経営の多角化を図り、後の古河鉱業、古河財閥を興すことになるのです。

しかしながらこの鉱山がもとで、足尾鉱山鉱毒事件が発生し長い間の闘争の歴史が始まることになるのです。

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古河市兵衛が渋沢栄一の第一国立銀行の危機に際して取った行動のまとめ

渋沢栄一と後の古河財閥の創始者となる古河市兵衛との関係を解説してきました。

一旦は小野組でかなりの部分を任されるほどの人物となった古河市兵衛は小野組の破綻の時に示した潔さで、しばらくの雌伏の後、鉱山王として世に出るようになったのです。

しかし、一旦、事業が順調になってからの、鉱毒事件の対応はどうもはかばかしくないようで。住民を抑え込むような行動を散々しています。

現在とは価値観が違うので何とも言えませんが、どのように変質してしまったのかとも思いますが、人は多くの面を持っていますので、善人の面も悪人の面も持ち合わせているのでしょう。

第一国立銀行の危機に示した正直さを示す。市兵衛の豆腐のエピソードを紹介しておきましょう。古河市兵衛が良く語ったと言われている豆腐の物語だそうです。

市兵衛が小さい頃、天秤棒を担いで豆腐を売っていたそうです。ある時、籠とぶつかって豆腐が全部だめになってしまいます。籠に乗っていた侍は見て見ぬふりをして、駕籠かきは悪態をついていってしまいます。

それを見ていた商家の大旦那と思しき老人が、気の毒に思って市兵衛のところに駆け寄って、そのつぶれた豆腐を買ってやろうと申し出たそうです。豆腐は全部で120文とか。

その時、市兵衛は豆腐は100文売ると4文の駄賃がつくことになっているから、4文はいらないと正直に答えたそうです。老人は感心してその正直さをほめて、4文余計に駄賃にくれたそうです。

何事も正直が大切ということでしょう。

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