日本の近代経済の父、渋沢栄一。彼を陰で支えた妻の一人に、伊藤兼子がいます。実は彼女、明治初期に一大事業で失敗し、家を没落させた**豪商・伊藤八兵衛**の娘でした。そしてその没落には、後に渋沢とも深い関わりを持つことになる、ある謎めいた人物が深く関係していたのです。その男こそ、アメリカ人実業家・ロバート・W・アーウィン。今回は、兼子の実家を破滅に追い込んだアーウィンの、波乱に満ちた生涯を紐解いていきましょう。
波乱の人生を歩んだ伊藤兼子
まずは今回の主役である伊藤兼子について、簡単に触れておきましょう。兼子は、江戸時代に「江戸随一の大金持ち」と称された豪商・伊藤八兵衛の四女として生まれました。幼い頃から何不自由なく育ち、18歳で近江から婿を迎え、家業を継ぐことになります。
まさに順風満帆な人生の始まりでした。しかし、その幸せは長くは続きません。明治維新という時代の大きなうねりの中、父である八兵衛の事業が大失敗し、一家は没落の憂き目を見ることになります。そして兼子は、夫とも離縁することになってしまいました。名家の令嬢から一転、苦しい生活を余儀なくされた彼女は、やがて芸者として身を立てる道を選びます。その美貌と教養から多くの縁談が持ちかけられますが、すべてを断り、ついに正妻として渋沢栄一のもとに嫁ぐことになりました。実は、渋沢が当時住んでいた家は、かつて兼子が暮らしていた家だったそうです。まさに運命的な巡り合わせだったのかもしれませんね。
🤔 なぜ?伊藤八兵衛は没落したのか
伊藤八兵衛は、武蔵国川越の出身で、江戸一番の質屋「伊勢長」に奉公した後、幕府の御用商人だった伊藤家に婿入りし、努力の末に江戸随一の富豪となりました。彼の財力は、幕末に水戸の天狗党が挙兵した際、すぐに3万両(現在の価値で約3億円)もの大金を融資できたという逸話からも伺えます。まさに時代の寵児でした。
しかし、明治初期に運命の歯車が狂います。1871年頃、アメリカのウォルシュ・ホール商会と、ドル為替取引の事業を行った際に、多額の損失を被ってしまったのです。現代でいう**FX(外国為替証拠金取引)**のようなものだったと考えられています。この取引の担当者が、今回ご紹介するロバート・W・アーウィンでした。
驚くべきことに、実際の取引はアーウィンが行い失敗していたにもかかわらず、その損失を隠すために、日本側の伊藤八兵衛が不正に関わっていたとされました。結果、領事裁判所で日本側が全面敗訴となり、八兵衛は巨額の負債を抱えてしまいます。その額はなんと15万円(現在の価値で約15億円)にのぼるとも言われ、裁判費用すら捻出できないほどの状態でした。失意のうちに八兵衛は1878年にこの世を去り、伊藤家は没落してしまったのです。
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渋沢とも関わる謎の男、ロバート・W・アーウィン
伊藤八兵衛家を没落に追い込んだ張本人、それがロバート・W・アーウィンです。兼子にとっては、まさに「不倶戴天の敵」ともいえる存在でした。しかし、彼のその後を調べてみると、驚くべきことに、日本の近代化を支えた渋沢栄一や三井物産とも深く関わっていたことがわかります。ここからは、アーウィンの波乱に満ちた生涯を追っていきましょう。
1874年、アーウィンはウォルシュ・ホール商会を辞め、横浜でエドワード・フィッシャー商会の共同経営者となります。この時も会計トラブルがあったとされますが、彼のビジネス手腕は確かだったようです。鉱山経営や米穀相場の会社に出仕するなど、様々な事業に関わっていきます。
共同運輸とハワイ移民、成功を掴んだアーウィンの大躍進
三菱に対抗する共同運輸設立に関与
1876年、アーウィンは三井物産の相談役やロンドンでの代理店業務を務めるなど、日本の大財閥である三井家と密接な関係を築きます。そして、日本の海運を巡る三菱と政府・三井の激しい競争が始まった時、アーウィンは重要な役割を果たすことになります。
当時、圧倒的な力を持っていた三菱の海運事業に対抗するため、渋沢栄一、井上馨らが中心となり設立したのが**共同運輸会社**でした。この共同運輸の外国人支配人に、アーウィンが抜擢されたのです。兼子にとって、自分の実家を没落させた男が、夫の重要な事業に深く関わっているのを知った時、どのような気持ちだったのでしょうか。皮肉な運命の糸を感じざるを得ませんね。
※渡部鼎
娘2人がアメリカの実業家ロバート・W・アーウィン(ベンジャミン・フランクリンの子孫)の2人の息子とそれぞれ結婚②【野口英世】
ほぼ独学で医師になる
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その後研究者になり北里感染病研究所へ入所
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研究所を視察したアメリカのサイモン・フレクスナーと知り合う pic.twitter.com/hhdUoGnJlR— ちゅうたん (@wankolove_111) September 24, 2021
ハワイ移民で莫大な富を築く「移民帝王」へ
さらにアーウィンの成功は続きます。1880年、彼は不在だったハワイ王国の総領事代理に指名され、やがて駐日ハワイ王国公使へと昇進。この立場を最大限に活用し、ハワイのプランテーションで働く日本人移民の仲介事業を始めます。
ハワイへ渡った日本人移民は、記録に残っているだけで3万人にも上ると言われています。この一大事業によって、アーウィンは莫大な富を築き、「移民帝王」とまで呼ばれるようになりました。伊藤家を没落させた男は、日本とハワイの架け橋となり、誰もが羨むような成功を収めたのです。
アーウィンは晩年、現在の衆議院事務総長公邸や三井倶楽部、五島美術館の敷地となる広大な屋敷に住み、幸せな人生を送ったとされています。皮肉なことに、没落した伊藤家と対照的な人生を歩んだアーウィン。その成功の裏には、様々な思惑が渦巻いていたのかもしれません。
まとめ:因縁の二人の物語
この記事では、渋沢栄一の後妻となる伊藤兼子の実家を没落させたロバート・W・アーウィンの生涯と、両者の不思議な因縁について解説しました。兼子は波乱の人生を送ったものの、渋沢栄一という素晴らしい伴侶を得て幸せな晩年を過ごしたことでしょう。一方でアーウィンは、波乱はありつつも、事業家として大成功を収め、その人生を全うしました。
一方は没落を経験し、もう一方は大成功を収めたこの二人の物語は、激動の明治時代における経済と人間模様の複雑さを示しているようです。あなたはこの二人の運命をどのように感じましたか?
💡豆知識:アーウィンはアメリカ建国の父、ベンジャミン・フランクリンの子孫であるとされ、その息子2人は日本の実業家・渡部鼎の娘たちと結婚しています。このように、アーウィンは日本の政財界と深い縁を持つ人物だったのです。
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