織田信長の生涯の最大の試練の場であり見せ場となる桶狭間の戦いについて解説していきます。信長は、まだこの時26歳の若武者です。
ここで人生最大の危機を迎えこれを乗り切ります。この戦いにより多くの大名からは注目される存在となった転機でもあります。
織田信長の桶狭間の戦いの背景
ようやく尾張国でほぼ地歩を固めた織田信長ですが、永禄3年(1560年)大変な事件が起こります。
今川義元は駿河、遠江、三河の三国を支配する大大名ですが、三河国と尾張国の接点で織田家とたえず争いがありました。
どちらかと言えば今川勢がそれまでに押し込まれた感じになっています。一時は那古野城まで今川の支配下でしたが、信秀の頃にやっと現在の名古屋市中心部から今川勢を南東部に押し返したぐらいです。
それでも今川勢は名古屋市の緑区、南区ぐらいところに、大高城、鳴海城、沓掛城を築いていました。今川勢は徐々に浸透してきて、やがて伊勢湾に進出する気配を見せていました。
織田側としては津島を拠点とした海運による利益を重視していますので、これが圧迫されるのを恐れて、阻止する必要がありました。
このため織田側としては、これらの城を分断するため、鳴海城、大高城の周辺に砦を築いて今川勢と対峙していまいした。
1560年の今日 5月19日、桶狭間の戦いで今川義元が打ち取られました。豪雨の中の戦だったそうです。
「刀剣ワールド 浮世絵」から、本合戦を描いた浮世絵をご紹介します。▼桶狭間大合戦之図https://t.co/024T2tH7fP#歌川芳虎 #刀剣ワールド #刀剣ツイッター pic.twitter.com/kpJLXC4Lqp
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織田信長の桶狭間の戦い
ついに今川義元の登場となります。永禄3年(1560年)のことです。
総勢2万5千とも3万ともいわれている兵力を動員して、これらの砦を攻略してあわよくば織田軍に壊滅的な打撃が与えられることを期待したことでしょう。
何しろ織田軍の動員能力は精々3千ぐらいと言われています。
まず、今川義元は5月12日一番近い沓掛城にはいります。
松平元康(後の徳川家康です)に大高城に兵糧を届けさせます。包囲されている大高城に届けるのですから大変ですよね。支配されている国の辛いところです。
そして、5月19日、織田側の丸根砦、鷲津砦に攻撃をかけさせます。ここら辺が映画「ブレイブ 群青戦記」の舞台になったシーンです。
おはようございます
今日は「桶狭間の戦い」が起きた日
永禄3年(1560年)のこの日、織田信長が今川義元に戦いを挑んだ「桶狭間の戦い」が起きた。今川軍の兵力は織田軍の10倍とされていたが、情報収集などによる綿密な戦略によって織田軍が勝利。信長による天下統一への足掛かりともなった戦い。 pic.twitter.com/CsC94MtaTn
— 食べ過ぎ🥴 (@tabesugixxx) May 18, 2021
織田信長の出陣
信長はその前日に出陣します。それまで、今川軍にどう対峙するのか評定をしますが、兵力差が8倍から10倍では籠城が大勢となってしまうでしょう。
ということは砦の方は見捨てるということでしょう。
夜中に突然出陣ということで、酒茶漬けを用意させ、幸若舞の敦盛を舞って出陣したというのは有名な話ですよね。
最初は5騎で出陣したと言われていますが、集合場所を熱田神宮にしたのでしょう。太閤記には木下藤吉郎も主君信長を追いかけて、熱田神宮まで向かったことになっていますが、真否はわかりません。
そこで戦勝祈願をして、コイン占いをします。そのコインは両側張り合わせのコインですから、神託は勝ちと出ます。こうして気分を盛り上げて、そうして鳴海城に対峙する善照寺砦にはいります。
岡崎市でのホーム初開催のあたり、試合前に岡崎市内の大樹寺に立ち寄り必勝祈願!
大樹寺は徳川家の菩提寺で、家康公が桶狭間の戦いで「もはやこれまで」と自害を図った際、厭離穢土欣求浄土(おんりえどごんぐじょうど)の精神を説いたことでも知られています。#FCマルヤス岡崎 #コミュサカ pic.twitter.com/7cb54jwWB9— イケザえもん(極) (@ikezaemonKiwame) May 30, 2021
織田信長の桶狭間の戦い
今川義元は最初沓掛城にいますが、午前中には丸根砦、鷲津砦が陥落したという連絡を受けて、大高城に向かって進軍します。
ここで天の助けになるわけです。昼頃大雨になり一時視界不良となってしまいます。
そして、視界が明けたころに、織田軍の本体と遭遇してしまうのです。
織田軍としては、確かに今川軍に攻撃をかけるために出撃したものの、今川軍の前衛部隊に遭遇することなく、まさに今川義元がいる中心部に突入してしまったという形になります。
今のように敵の全貌がわかるわけではありません。今川軍2万5千とも3万とも言われる中で、どこに大将がいるかは、あらかじめ明確にわかるわけではありません。
これは、予期せぬ奇襲という形になります。いくら大勢の兵力を連れてきてもピンポイントではほとんど勢力差がない状況での遭遇戦となってしまいます。
このため、今川義元はわずかの供回りで大高城に入ろうとしまいますが、討ち取られてしまいます。これによって今川軍は総崩れとなります。
昔読んだ軍記物では、今川義元が丸根砦、鷲津砦の陥落によって、慢心して田楽狭間で宴会をしていたところを奇襲にあったとされていましたが、これでは今川義元がかわいそうです。
仮にも三国一の弓取りと言われている大将です。そんなことで慢心するようなことはなかったかと思います。
桶狭間の戦いの後の松平元康は
今川方にいた松平信康は一時松平家の菩提寺である大樹寺に逃れて、自害しようとしますが、大樹寺の住職登誉天室に諭され、岡崎城に入ります。
この時説かれた言葉が、「厭離穢土欣求浄土」で松平信康の旗印になります。
この戦いで今川氏の多くの重臣が討ち死にしたほか、今川家から離反するものが相次いでいます。これによって三国を支配していた今川家の勢力は衰えてしまいます。
松平信康もこの機会に今川から離反することになります。
そして、永禄5年(1562年)信長と清洲同盟を結ぶことになります。これによって織田信長は東側からの脅威を取り除くことができるようになりました。
織田信長は桶狭間の戦いで今川義元とどう戦ったか?のまとめ
織田信長のもっとも有名な戦いの桶狭間の戦いを解説しました。信長の決断も優秀ですが、やはり運もかなり味方していたようです。
決戦の時、突進した先が運よく今川義元の本陣に入ってしまったことが何よりでした。これが、今川軍の前衛部隊などに突入したのでは、やがて消耗して、後の織田信長はいなかったことでしょう。
でも、これによって戦国時代の構図が大きく変わることになるので、歴史を分けた戦いと言えるでしょう。
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