実力vs権威の激突!織田信長が「将軍」足利義昭を必要とし、そして滅ぼした理由:室町幕府終焉のドラマ

中世(鎌倉~戦国)
「天下は実力で獲る」—誰もがそう思っていた戦国時代。しかし、風雲児・織田信長は、なぜ室町幕府最後の将軍・足利義昭を担ぎ上げたのでしょうか?そして、なぜ最後は激しく対立し、幕府を滅亡へと追い込んだのか?

この記事では、「実力(信長の武力)」「権威(将軍の正統性)」という、水と油の関係にあった二人のトップが辿った愛憎劇を、将軍擁立の**「蜜月」**から「信長包囲網」、そして**「幕府終焉」**まで、臨場感たっぷりに追体験します。教科書には書かれていない、戦国時代を動かした**「見えない力」の正体**に迫ります。

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💥 Part 1:なぜ信長は「将軍」の権威を欲したのか?「天下布武」のための将軍擁立の深層

「戦国時代は下剋上だ!」確かにそうですが、世が乱れていても、**室町幕府「将軍」の権威**は私たちが想像する以上に、**重く、しぶとく**生き残っていました。まるで、形骸化した権威という名の**“幽霊”**が、実力者たちの行動を無意識に縛っていた、とでも言うべきでしょうか。

すべては永禄8年(1565年)、第13代将軍**足利義輝**が三好・松永勢力によって暗殺された**「永禄の変」**から始まります。京を追われた義輝の弟、**足利義昭**は、自らを将軍の座に就けてくれる**「武力」**、つまりスポンサーを求めて諸国を流浪します。

1. 義昭の流浪:朝倉義景ではダメだった理由

義昭は、まず近江国を経て越前の**朝倉義景**のもとに身を寄せます。しかし、義景は優柔不断で、上洛(京へ行くこと)の協力をためらいます。この間に、親三好派の従兄弟・**足利義栄**が第14代将軍に擁立されてしまいます(義栄はすぐに病死)。義昭にとって、**「将軍の座」**はまさに風前の灯でした。

ここで義昭の前に現れたのが、破竹の勢いで美濃国を平定したばかりの**織田信長**です。なぜ、信長は義昭を選んだのでしょうか?

2. 「天下布武」の真意:「錦の御旗」としての将軍

信長が朱印に掲げた**「天下布武」**は、単なる**「武力で天下を統一する」**という意味だけではありませんでした。歴史学の最新の見解では、これは**「将軍の権威(正統性)」を背景**として、武力で天下に号令し、**平和な世を築く**という意味合いが強かったとされています。

  • **【対外的正当性】** 信長は尾張・美濃の**地方大名**に過ぎませんでした。いきなり京で政治を動かすには、**「将軍を擁立した者」**という、誰もが認める**大義名分**が必要だったのです。
  • **【武力行使の根拠】** 将軍の**「御内書(命令書)」**を背景にすれば、「天下の**公権力**」として、敵対勢力を討伐する**法的・道義的な正当性**が生まれます。

信長にとって、**足利義昭は、自身の勢力を正当化し、畿内を平定するための「錦の御旗」という、不可欠な「ツール」だった**のです。

3. 永禄11年(1568年)の電撃上洛と将軍誕生

永禄11年(1568年)、信長はついに大軍を率いて義昭を奉じ、京へ上ります。畿内を実効支配していた三好三人衆らを瞬く間に退け、同年、**足利義昭は第15代将軍に就任**。この瞬間、信長は単なる地方の一大名から、**幕府の擁護者、つまり天下の政治を動かす中心人物**へと一躍躍り出ました。

💡 **義昭は実は外交のプロだった:** 義昭は信長に擁立される前から、武田・上杉・北条といった大名間の和解を斡旋するなど、**「幕府の権威」**を使って一定の**外交的役割**を果たしていました。信長は、この**「天下を調停する」力**こそが欲しかったのです。

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⚔️ Part 2:蜜月はわずか数ヶ月で崩壊!信長による「将軍操縦計画」と殿中御掟の真実

将軍擁立という最高の**「協力関係」**から、二人の関係は急速に冷却化していきます。原因は、シンプルかつ根源的。**「京の政治の実権は、武力で勝る信長が握るのか?それとも正統な権威を持つ将軍が握るのか?」**という、避けられない衝突でした。

1. 信長が突きつけた「将軍権力制限令」:殿中御掟

永禄12年(1569年)、三好三人衆らの義昭攻撃を撃退し、京での地位を固めた信長は、いよいよ本性を現します。**二条に大規模な御所**を築いた直後、信長は**「殿中御掟(でんちゅうおんおきて)」9か条**(後に7か条追加)を足利義昭に承認させます。

この御掟は、一見すると旧来の幕府の規定のようですが、その核心は**「将軍の自由な行動と直訴を禁じる」**という、**信長による巧妙な「操縦計画」**でした。

  • **【外交権の剥奪】** **訴訟の制限(第5条、第6条)**:将軍への直訴を禁じ、訴訟は必ず信長が関与する奉行人の手を経るように義務付けられました。これは、**義昭が直接大名や武士と接触し、信長を通さずに独自の勢力を持つこと**を、完全に封じ込めるための最大の狙いでした。
  • **【行動の透明化】** **人事・雑事の制限(第1条、第4条など)**:幕臣の私的な御所への出入りを厳しく制限。義昭の周りを信長の**「監視下」**に置くための強制的な措置でした。

つまり、この御掟は、「将軍の権威は利用するが、**将軍本人には勝手な行動をさせない**」という、信長による**将軍の「リモートコントロール」**宣言だったのです。

2. 崩れるバランス:「実力なき権威」の限界

この頃から、幕府の奉行人が下す裁定には**「実力(軍事力)」**が伴わないため、公平性も欠けているという問題が表面化します。結果として、**訴訟案件のほとんどが信長のもとに持ち込まれる**ようになりました。

**「武力を持つ信長」**と、**「正統性を持つ義昭」**。このバランスは、信長が義昭を**「飾りの将軍」**と見なし、義昭が自ら主導権を取り戻そうと画策し始めたことで、音を立てて崩壊へと向かいます。

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💥 Part 3:「腐っても鯛」の逆襲!将軍権威の最強武器「信長包囲網」の結成

自らが飾りの将軍にされていると悟った足利義昭は、信長を排除するため、**「将軍の権威」という、信長を擁立したからこそ手に入れた最強の武器**を振りかざします。これが、歴史に名高い**信長包囲網**です。

1. 第一次包囲網:将軍の御内書が敵を団結させた

元亀元年(1570年)、信長が朝倉義景討伐に出陣した際、妹婿の**浅井長政が電撃的に離反**。信長は**金ヶ崎の戦い**で九死に一生を得て撤退しました。この離反の裏には、将軍義昭の働きかけがあったとされています。

義昭の**「将軍の命令書(御内書)」**は、次々と信長の敵を団結させます。

  • **浅井・朝倉連合軍**
  • **三好三人衆**
  • **比叡山延暦寺や石山本願寺**(宗教勢力の動員は将軍の権威あってこそ)

この第一次包囲網の圧力は凄まじく、信長は和睦を繰り返しながら、危機を辛うじて乗り切ります。このとき、信長が**「陰で糸を引いているのは将軍義昭だ」**と確信したことは間違いありません。

2. 第二次包囲網:武田信玄の登場と信長の「情報戦」

元亀2年(1571年)以降、義昭は、**武田信玄、上杉謙信、毛利輝元**といった全国の超大名に御内書を送り、第二次包囲網を形成します。将軍の権威は、**全国レベルの対信長連合**という、とてつもない軍事同盟を現実のものにしたのです。

この最大の危機に対し、信長は単なる軍事力だけでなく、**情報戦・プロパガンダ**で対抗しました。義昭に突きつけた**「17か条の異見書」**を大量に各大名に送りつけます。

📢 **信長の主張:** 「自分は幕府を支えるために正しく振る舞っているが、**義昭こそが贅沢をし、政治を私物化している!**」

信長は、将軍の**「失政」**を全国に暴露することで、**自身の立場の正当性を証明**し、将軍権威を逆利用しようと試みました。

3. 室町幕府の終焉:天運と追放

元亀3年(1572年)、武田信玄は**三方ヶ原の戦い**で織田・徳川連合軍を大敗させ、京へ向けて進軍。信長は最大の危機に瀕しますが、ここで**「天運」**が信長に味方します。元亀4年(1573年)、**信玄が病死**し、武田軍が本国に撤退したのです。

最大の脅威が去った信長は、直ちに京に侵攻し、義昭を降伏に追い込みます。同年7月、再び挙兵した義昭は信長に敗れ、摂津河内へと**追放**されます。これをもって、**室町幕府は実質的に滅亡**したとされています。

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👑 Part 4:追放後も「将軍」だった義昭:権威のしぶとさとその後の活動

信長に京から追放された義昭ですが、ここが非常に興味深い点です。なんと義昭は、**その後も将軍職を辞めることなく、存続し続けました!**

1. 「征夷大将軍」という名の外交資産

義昭は、備後国鞆(とも)に身を寄せ、中国地方の雄・**毛利輝元**の庇護を受けながら、各地の大名に対して**征夷大将軍としての御内書**を送り続けました。

**「腐っても鯛」**という言葉の通り、将軍という役職が持つ**「権威」**は、信長の支配が及ばない地域、特に西国では、依然として**「外交上の資産」**として機能していたのです。義昭は、信長に対抗する勢力に対し、**「大義名分」**と**「正統性」**を与え続ける存在でした。

  • **三度目の包囲網を画策:** 義昭は、上杉謙信や毛利氏といった勢力に働きかけ、しぶとく三度目の信長包囲網を画策し続けます。
  • **敵の自滅と瓦解:** しかし、上杉謙信の死去(1578年)、石山本願寺の降伏(1580年)、武田勝頼の滅亡(1582年)と、信長の敵対勢力が次々と消滅し、包囲網は自然と瓦解してしまいました。

2. 本能寺の変後のしぶとさ:秀吉との最終決着

天正10年(1582年)、**本能寺の変**で織田信長が討たれた後も、義昭の活動は衰えません。**毛利輝元、羽柴秀吉、柴田勝家、徳川家康**といった新たな天下人候補たちに対し、次々と書状を送り、**「上洛して自分を支えるべし」**と呼びかけ続けます。

義昭が将軍職を辞したのは、なんと**天正16年(1588年)**、秀吉が関白に就任し、豊臣政権が確立した後でした。秀吉は、義昭の**「将軍の権威」**がこれ以上、政治的な火種とならないよう、辞職を促したのです。

**足利義昭**:室町幕府最後の将軍。権威によって信長を追い詰めたが、最後は武力に屈した。しかし、追放後も**「征夷大将軍」**の肩書を8年間手放さず、権力構造の中に居座り続けた姿は、まさに**権力の本質**を体現しています。

信長にとって、足利義昭は、**天下統一の正当性を与えてくれた最大の功労者**であると同時に、**自分の首を狙い続けた最大の敵**でもありました。この二人の「実力」と「権威」を巡る激しい戦いこそが、**形骸化した室町時代を終わらせ、新しい戦国時代の扉を開いた**と言えるでしょう。

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