織田信長と明智光秀、本能寺の変。どのように変が起こり終息したか

歴史人物

織田信長の最も注目される事件が本能寺の変です。この本能寺の変についての経過を説明するとともに、これについてはなぜ起こったかを検討したいと思います。

戦国時代で歴史上の最大事件ですので、様々な考察がされていますが、私は既に家督を譲られた織田信忠に注目しております。

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織田信長、信忠父子の前日の動向

天正10年(1862年)5月14日、織田信長は明智光秀に安土を訪れる予定の徳川家康の供応役を務めるように指示します。

ところが5月17日には、羽柴秀吉から応援要請がきたため、光秀に出陣を命じる。光秀はさっそく近江坂本上に戻って準備をすることにする。5月26日には、光秀は丹波亀山城に移る。

信長は29日安土城をはなれて、京の本能寺に入る。6月1日には本能寺で茶会を開いている。織田信忠も本能寺に現れたのち、深夜1km先の妙覚寺に帰る。

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明智光秀の前日の動向

6月1日、光秀は1万3千人の軍を引き連れて、丹波亀岡城を出陣する。夕刻軍議を開き、重臣たちに謀反を告げる。重臣以外を知るものはいず、堺に滞在している家康を狙うものと想像しているものもいたくらいです。

6月2日未明、桂川に到着すると。戦闘準備をさせた。そして午前4時ごろには本能寺を完全に包囲した。寺を包囲したのは3千といわれている。完全に奇襲に成功したようです。

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本能寺での織田信長

信長は誰が謀反を図ったのか、想像できなかったようである。そこで明智光秀の軍勢であると告げられると、「是非に及ばす。」(仕方がない、やむを得ない。)と語ったといわれている。

実際に寺を守っていた信長の軍勢は100人程度であったといわれているので、もうこの段階で、どうしようもないことは理解できたのでしょう。

女房衆は逃がして、弓で持って戦い、弦が切れれば、槍でもって戦いますが、所詮そこまでです。御殿に火をかけて納戸を閉めて、中で切腹したことになっています。

午前8時ぐらいには終わってしまいます。

ところが、この後困ったことになってしまいます。信長の遺体を探すのですが、見つかりません。この遺体と首が見つからないことには、信長を倒したことにならないのです。

こうなると明智光秀が自分側に味方になるように引き入れようとしてもうまくいかないのです。

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織田信忠の動向

織田信忠は本能寺に駆け付けようとしますが、部下に制止させられます。明智勢に完全に囲まれたところに救出に行くには手勢が足りなすぎます。

そして、妙覚寺よりも、より堅固なに二条城にうつります。この時の判断が歴史を左右することになってしまいます。つまり、この段階では京を脱出して安土に向かうことができたのです。

しかし、議論をしている間に二条城も包囲されてしまいます。信忠の手勢は500程度あったため、応援も加わりかなりの時間戦いを続けることができましたが、最後は、建物に火を放って中で切腹してしまいます。

この御殿も焼け落ちてしまったため、信忠の遺体も発見することができなかった。

信忠が生き残っていれば、すでに家督は信忠に譲られているので、安土城から追討命令を出せば済んだことになります。

同じように妙覚寺に滞在していた織田長益は二条城まで兄の信忠と同行していますが、そこから安土城に行くことができました。信忠がこの行動に出れば、後日、羽柴秀吉が天下を取る口実もなかったとされている。

 

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本能寺の変の原因は

これは、日本の歴史上の最大の謎とされています。明智光秀の単独説から始まって、黒幕説、共謀説まであります。

単独説一つとっても、怨恨によるのか、光秀の野望によるのか、自分の不安によるものまであります。

更に、黒幕候補となると、朝廷から始まって、足利義昭、徳川家康、羽柴秀吉まであって枚挙にいとまがありません。

戦国時代の武将は江戸時代と違って下剋上の時代です。自分と自分の一族を守ることが最大の使命となります。明智光秀にしてもその通りです。

少なくとも私憤によってこのような大事を起こすことはないのです。少なくとも明智光秀はこの大事によって、織田信長政権を倒さなければいけません。

つまり、織田信長だけを倒しても、実質的に織田家の家督は信忠に譲られており、信忠も後継者として十分な実力を備えておりますので、両者を一度に倒すのは容易ではありません。

この時点で、信長と信忠が大した勢力も持ち合わせず、至近距離にいるということはほとんど考えられない僥倖となるわけです。

明智光秀がこの情報を仕入れることができたのはそれほど前からではないので、事前に準備をしていくことは大変難しいのです。しかも下手に誰かに相談すればここから漏れる恐れもあります。

明智光秀としては、織田信長の配下ですが、あくまでも子飼いの臣下ではありません。将軍足利義昭が京都から追放されたときにむしろ将軍を見限って、織田信長についただけなのです。

その時の前提として、一族の安泰と出世です。信長政権でも相当出世して、信長ががら空きになるほどの信頼を勝ち得たのです。

しかし、これが最後、10年に一度いや一生に一度のチャンスになると考えたのではないでしょうか。こうして、実行に移したのだと思います。部下たちもこれに従っていることを考えれば、それほど驚くほどの謀反ではなかったのです。

しかし事前にいろいろなことは想定しながら進めたとは思いますが、残念なことに実行がうまく進まなかったことだったと思います。

最大の誤算は、自分につく武将がほとんど現れなかったこと、秀吉の中国大返しが想定以上の速さだったことでしょう。

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織田信長と明智光秀、本能寺の変。どのように変が起こり終息したかのまとめ

戦国時代の最大のイベントである本能寺の変について、その経過を説明するとともに、原因を私なりに推測してみました。

今まで、織田信長を倒すということに重点を得て考えているからわからなくなるのです。本来は、織田政権を倒すということです。

そのためには、信長、信忠の両者を一度に倒す必要が出てくるのです。こんなことは、この一時期しかなしえなかったと考えるは間違いでしょうか。

残念なのは、信忠に安土城に脱出できるチャンスがあったことです。でも、この時代信長を見捨てて自分だけ脱出するのは、かなり評判が悪くなるようです。

無事脱出した弟の長益は後々まで京で悪評だったようです。そんなこともあって、信忠は躊躇したのでしょうか。

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