明正天皇は、称徳天皇以来859年ぶりに誕生した女性天皇で、幼くして即位した背景には江戸幕府と朝廷の緊張関係がありました。
第109代天皇にあたる明正(めいしょう)天皇は、後水尾天皇と、徳川秀忠の娘・和子との間に生まれました。つまり皇室と徳川将軍家、二つの大きな権力を結ぶ存在だったのです。
しかし、その立場は華やかというより、むしろ朝廷と幕府の間に置かれた難しいものでした。なぜ幼い皇女が859年ぶりの女性天皇となったのか、後水尾天皇の突然の譲位、紫衣事件、徳川家との関係、そして退位後の人生まで順に見ていきます。
明正天皇とは?859年ぶりの女性天皇が即位した理由
明正天皇は後水尾天皇の第二皇女で、母は第2代将軍徳川秀忠の娘・和子(東福門院)です。
幼称は女一宮、諱(いみな)は興子(おきこ)といいました。
生まれた日は元和9年11月19日です。元和9年は1623年ですが、旧暦の日付を現在使われている暦に換算すると1624年1月に入るため、資料によって「1623年生まれ」「1624年生まれ」という二つの表記を見かけます。
これは誤りが二つあるというより、旧暦の年で示すか、西暦換算した日付で示すかの違いと考えると分かりやすいでしょう。明正天皇の生没年についても辞典によって1623~1696年、1624~1696年という表記が見られます。コトバンク+1
寛永6年(1629年)10月、女一宮は内親王宣下を受けて興子内親王となりました。
ところが、その直後の11月8日、父・後水尾天皇が突然譲位します。
こうしてまだ幼い興子内親王が皇位を継ぎ、第109代明正天皇となりました。
一般には「7歳で即位」と紹介されることが多いのですが、当時の年齢の数え方と現代の満年齢には違いがあります。国立国会図書館の資料では、後水尾天皇が1629年11月8日に突然譲位し、「6歳の明正天皇が践祚した」と整理されています。国立国会図書館
いずれにしても、自ら政治的な意思を示して皇位を望むような年齢ではありませんでした。
しかも、女性天皇の即位は奈良時代の称徳天皇以来のことです。
称徳天皇が770年に亡くなってから明正天皇が1629年に即位するまで、およそ859年。国立国会図書館も「約860年間女性天皇が皇位に即くことはなかった」としています。国立国会図書館
古代には推古天皇、皇極天皇・斉明天皇、持統天皇、元明天皇、元正天皇、孝謙天皇・称徳天皇と、6人8代の女性天皇が存在しました。
しかし、その後は長い空白が続きます。
その空白を破ったのが明正天皇だったわけです。
さらに重要なのは、明正天皇の母・和子が徳川秀忠の娘だったことです。
和子は徳川家康の孫ですから、明正天皇は家康の曽孫ということになります。
つまり明正天皇は、皇室の血と徳川将軍家の血を直接引く天皇でした。
徳川将軍家を外戚とする天皇という意味でも、きわめて特別な存在です。
ここだけを見れば、朝廷と徳川幕府の結びつきを象徴する理想的な存在のようにも思えます。
ところが実際には、明正天皇の誕生と即位の背景には、両者の友好的な関係だけでは説明できない、かなり複雑な事情がありました。
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後水尾天皇はなぜ突然譲位したのか?
後水尾天皇の突然の譲位には、江戸幕府による朝廷への干渉と、それに対する天皇側の強い不満が背景にありました。
明正天皇を理解するには、父・後水尾天皇と徳川幕府との関係から見ていく必要があります。
その対立は、後水尾天皇の即位以前にまでさかのぼります。
後水尾天皇の父は第107代後陽成天皇です。
後陽成天皇には皇位継承をめぐって自分なりの考えがあり、弟の八条宮智仁親王への譲位を希望した時期がありました。
しかし徳川家康はこれに反対しました。
後陽成天皇は最終的に第3皇子の政仁親王へ譲位します。
この政仁親王が後水尾天皇です。
後陽成天皇と徳川家康の間には朝廷の人事や皇位継承をめぐる緊張があり、後陽成天皇と後水尾天皇の父子関係も円滑ではなかったとされています。後陽成天皇が弟・智仁親王への譲位を望んだものの、家康の反対で実現しなかったことは、歴史辞典でも確認できます。コトバンク
こうした状況のなかで後水尾天皇は皇位につきました。
江戸幕府は徳川政権が安定するにつれて、武家だけではなく朝廷や公家に対しても制度的な統制を強めていきます。
象徴的なのが禁中並公家諸法度です。
元記事では慶長18年とされていましたが、禁中並公家諸法度が制定されたのは元和元年(1615年)です。
この法度によって天皇や公家の行動、官位、宮廷秩序などについて幕府が強く関与する仕組みが整えられていきました。
朝廷を消滅させようとしたわけではありません。
むしろ江戸幕府は朝廷の権威を認めながら、その権威が幕府の統治を揺るがす方向へ働かないよう管理しようとしました。
私はここが、明正天皇の時代を理解するうえで非常に大切だと考えています。
単純な「朝廷対幕府」という二者択一ではなく、幕府は朝廷の権威を必要としながら、その自由な政治的行動は抑えようとしたのです。
その矛盾が後水尾天皇の時代に何度も表面化しました。
およつ御寮人事件とは?
後水尾天皇と幕府の間に亀裂を生じさせた出来事の一つが、およつ御寮人事件です。
徳川家康は、自らの孫娘で秀忠の娘である和子を後水尾天皇のもとへ入内させようとしました。
徳川家と皇室を婚姻で結びつけることは、徳川政権にとって大きな意味を持っていました。
ところが元和4年(1618年)、後水尾天皇が寵愛していた女官・四辻与津子との間に皇子や皇女がいたことが問題となります。
徳川家にとって、和子の入内後に生まれる子が皇位につけば、徳川家は天皇の外戚になれます。
そのため、入内前から別の女性との間に皇子が存在することは、将来の皇位継承を考えるうえで無視できない問題だったのでしょう。
事件の結果、関係者が処分され、与津子も宮中を離れて出家することになりました。
これが一般に「およつ御寮人事件」と呼ばれる出来事です。
かつて平安時代末期、高倉天皇の寵愛を受けた小督が平清盛によって宮中から遠ざけられた話があります。
時代も事情も異なりますから単純に同じ事件とはいえませんが、政治権力が天皇の私生活や後宮にまで強い影響を及ぼすという点では、思わず似た構図を感じてしまいます。
人間関係と権力が結びつくと、何百年時代が隔たっていても似た緊張が生じるものなのかもしれません。
やがて和子は後水尾天皇に入内し、のちに東福門院と呼ばれるようになります。
その和子が生んだ皇女こそ、後の明正天皇でした。
紫衣事件は後水尾天皇の譲位にどう関係した?
朝幕関係を決定的に悪化させた出来事として知られているのが、紫衣事件です。
紫衣とは、格式ある僧侶に認められた紫色の法衣です。
朝廷は古くから、高僧に紫衣を着用する許可を与えてきました。
ところが寛永4年(1627年)、後水尾天皇が従来の慣例に基づいて僧侶たちに紫衣着用の勅許を与えたことに対し、幕府側が異議を唱えます。
幕府は、幕府の定めた法度に反するとして勅許の一部を無効とする姿勢を示しました。
朝廷や大徳寺などの高僧が反発しましたが、幕府は抗議した僧侶を処罰します。
後水尾天皇から見れば、自らが出した勅許を幕府によって否定されたことになります。
これは単に「お坊さんの服の色」をめぐる争いではありません。
天皇の権威と幕府の法令のどちらが現実の社会で優先されるのかという、非常に重い問題だったのです。
明正天皇の即位について主要な辞典でも、紫衣事件などを背景に朝幕関係が悪化し、後水尾天皇が譲位したことが説明されています。コトバンク+1
さらに寛永6年(1629年)には、徳川家光の乳母として大きな影響力を持っていた春日局が上洛しました。
春日局は生まれながらの公家ではありません。
そこで三条西実条の猶妹という資格を整えたうえで参内し、後水尾天皇に拝謁しています。コトバンク
形式上の手続きを整えていたとはいえ、朝廷側から見れば、幕府の権勢が宮中の内部にまで及んでいるように映ったとしても不思議ではありません。
紫衣事件、春日局の参内などが重なるなか、後水尾天皇は幕府に譲位を打診します。
しかし幕府はすぐには同意しませんでした。
国立国会図書館の調査によれば、後水尾天皇は、将来皇子が誕生すれば女一宮からその皇子へ譲位するという考えを示し、幕府に譲位の意向を伝えました。
それでも幕府の了解が得られなかったため、1629年11月8日、公家たちにも十分知らせないまま突然譲位を実行したとされています。国立国会図書館
ここに明正天皇の即位の最大の理由があります。
つまり、単純に「女性の皇位継承者として選ばれた」というより、後水尾天皇と幕府の対立のなかで、幼い皇女が皇位を受けることになったのです。
女性天皇なら徳川の血統を一代で止められたのか?
明正天皇の即位については、もう一つ興味深い見方があります。
後水尾天皇があえて和子の娘である興子内親王を皇位につけたのは、徳川幕府への対抗策だったのではないか、という説です。
歴史上、女性天皇は在位中に結婚していません。
明正天皇も生涯独身でした。国立国会図書館の整理でも、元正天皇、孝謙・称徳天皇、明正天皇、後桜町天皇は生涯独身であり、歴代の女性天皇に在位中の配偶者はいなかったことが示されています。国立国会図書館
そのため、明正天皇自身から次の皇位継承者が生まれなければ、徳川家の血を直接引く皇統がそのまま代々続くわけではありません。
ここから「女性天皇を立てることで徳川の外戚化を一代に限定した」という説明がなされることがあります。
ただし、ここは慎重に見たほうがよいでしょう。
「女性天皇は必ず生涯独身」という明文化された近世の法律があったわけではありませんし、後水尾天皇の真意を一つだけに決めることもできません。
後水尾天皇の幕府への反発、当時皇位を継ぐ適当な皇子がいなかった事情、女一宮の立場、将来誕生する皇子へつなぐ考えなど、複数の条件が重なったと見るほうが自然です。
実際、近世の明正天皇と後桜町天皇について、国立国会図書館は「いずれも皇子に譲位することを前提にして践祚した」と整理しています。国立国会図書館
私は、ここを「徳川に対する後水尾天皇の奇策」とだけ説明してしまうと、明正天皇自身の置かれた立場が見えにくくなるように思います。
彼女は朝廷側の戦略だけで生まれた存在でも、幕府側の思惑だけで生まれた存在でもありません。
朝廷と幕府の双方が皇位継承に強い関心を持つ時代に、その接点へ置かれた幼い天皇だったと考えるのがよいでしょう。
明正天皇の治世はどうだった?後水尾上皇の院政と幕府の統制
明正天皇は寛永6年(1629年)に即位し、寛永20年(1643年)まで約14年間在位しました。
元記事では寛永20年を1642年としていましたが、正しくは1643年です。国立天文台の江戸時代の暦でも、寛永20年は1643年に当たります。国立天文台暦計算室
即位時はまだ幼かったため、実際の朝廷運営では父・後水尾上皇の存在が非常に大きなものでした。
後水尾天皇は譲位した直後から「法皇」になったわけではありません。
まず上皇となり、後に出家して法皇となります。
したがって明正天皇在位中の政治を考える際には、後水尾上皇による院政と表現するほうが正確です。
「明正天皇は幼いから何もしていない」と一言で終わらせることもできません。
興味深いことに、成長した明正天皇に政務を戻そうとする動きもありました。
国立国会図書館の調査によると、明正天皇が15歳になったころ、朝廷では政務を天皇に戻し、四方拝や節会などへの出御も行わせようとしました。
しかし京都所司代の板倉重宗は、こうした問題を幕府に相談すべきだとしながら、将軍徳川家光の病気を理由に江戸への伝達を先送りしました。
その結果、復辟と呼ばれる政務移譲は実現せず、明正天皇は政務に本格的に関与しないまま在位を続けたとされています。国立国会図書館
これは非常に示唆的です。
明正天皇が政治を行わなかったのは、単純に「本人に能力がなかった」「女性だから政治ができなかった」という話ではありません。
成長後に政務へ関与する可能性がありながら、それを取り巻く朝廷と幕府の政治構造によって実現しなかったという側面があるからです。
この点を知ると、「お飾りの天皇だった」という一言だけでは彼女の治世を十分に説明できないことが分かります。
寛永10年(1633年)には、後水尾上皇に皇子・素鵞宮が誕生しました。
この皇子が後の後光明天皇です。
もともと明正天皇から皇子へ皇位を移す構想があったため、皇子の成長によって譲位への条件が整っていきました。
そして寛永20年(1643年)10月3日、明正天皇は異母弟の後光明天皇へ譲位します。
宮内庁書陵部に残る資料には、この譲位の日の行列を描いたものがあり、明正天皇が土御門内裏から北側に新造された御殿へ移り、後光明天皇が内裏へ入った当日の様子が伝えられています。書陵部
在位は約14年。
年齢は当時の数え方で21歳前後とされます。
譲位後は太上天皇、すなわち上皇となりました。元記事にある「太政天皇」ではなく「太上天皇」が正しい呼び方です。
ところが、皇位を退いたことで自由な生活になったわけではありません。
譲位直前には、明正天皇が上皇になった後の行動について、幕府から厳しい制約が設けられたとされています。
その内容として伝えられているのは、朝廷の政治や官位への関与を避けること、親族との面会を年始などに限定すること、外出や訪問の際には一定の条件を付けることなどです。
朝廷に関する政治的な関与を防ぎ、徳川家と強い血縁を持つ明正上皇が独自の政治勢力にならないよう警戒した面があったと考えられます。
ここには少し皮肉なものを感じます。
徳川将軍家の血を引く天皇の誕生は、もともと徳川家にとって大きな意味を持っていたはずです。
ところが実際にその天皇が成長すると、今度は「徳川家の血を引く上皇が政治力を持つこと」そのものが警戒されるようになったわけです。
権力に近い血筋は、守りにもなれば、同時に警戒の理由にもなる。
明正天皇の人生には、そうした近世政治の複雑さがよく表れているように思います。
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譲位後の明正上皇はどのように暮らしたのか?
明正天皇は1643年に譲位してから、元禄9年(1696年)に亡くなるまで、非常に長い上皇時代を送りました。
政治の第一線から離れた後、どのような気持ちで日々を送っていたのかは、現代人が簡単に知ることはできません。
ただ、残された御所や寺院、文化財をたどることで、その生活の一端を感じることはできます。
京都・山科の勧修寺にある宸殿と書院は、明正天皇の旧御殿を移築したものと伝えられています。
京都市公式の観光情報でも、勧修寺の宸殿と書院は「明正天皇の旧御殿を移築」したものと紹介されています。【京都市公式】京都観光Navi
勧修寺は醍醐天皇の勅願寺として創建された門跡寺院で、皇室と深い関わりを持ってきました。
書院には土佐光起親子によるものと伝えられる障壁画があります。
そこに畿内の名所が描かれていることについて、自由な外出が難しかった明正天皇を慰めるためのものだった、という伝承もあります。
史料でどこまで確認できるかは慎重に考える必要がありますが、もしそうであったなら、外の景色を御殿の中へ運ぶ一種の「窓」のような役割を果たしていたのでしょう。
氷室の池を中心とした勧修寺の庭園も、現在まで明正天皇ゆかりの建物とともに歴史を伝えています。
また、退位後の明正上皇は宗教や文化にも深く関わりました。
京都・山科の十禅寺には、とりわけ興味深い伝承と資料が残っています。
京都市の公式観光情報によると、十禅寺が再興された後の明暦元年(1655年)、明正上皇は霊夢を見たと伝えられ、翌1656年には使者を遣わして本尊の厨子や本堂を寄進しました。
さらに宸翰、納経、縁起絵巻、歌縁起、愛用の人形なども伝えられています。【京都市公式】京都観光Navi
元記事で紹介した「明正天皇ゆかりの人形」も、こうした十禅寺との深い関係を物語るものです。
若くして皇位につき、若くして譲位し、その後半世紀以上を上皇として生きた人物が、晩年には信仰や文化の世界に心を寄せていたことを考えると、少し違った明正天皇像が見えてきます。
「政治をしなかった天皇」という見方だけではなく、政治から距離を置いた後の長い人生を、信仰と文化の中で過ごした女性という見方もできるのではないでしょうか。
明正天皇は諸芸にも親しんだといわれています。
京都の実相院には、明正天皇の真筆と伝えられる「三十六歌仙画帖」が残るともされています。
宮廷文化の世界に生きた明正天皇にとって、書や和歌、絵画、信仰などは、単なる余暇ではなく、自らの世界を広げる大切な営みだったのかもしれません。
元禄9年11月10日、明正上皇は亡くなりました。
当時の数え年では74歳とされることがあり、現代の満年齢では72歳ほどになります。
現在の感覚で「74歳まで生きた」「72歳で亡くなった」という二つの表記が見られるのも、先ほどの誕生年と同様、昔と現在の年齢の数え方が異なるためです。
陵は京都市東山区の月輪陵にあります。主要な辞典でも、明正天皇の陵墓は月輪陵とされています。コトバンク
明正天皇という追号には元明天皇と元正天皇が隠れている
明正天皇について覚えておきたい、もう一つ興味深い点があります。
それは「明正」という追号の由来です。
「明正」は、奈良時代の女性天皇である元明天皇の「明」と、元正天皇の「正」を組み合わせたものとされています。
主要な歴史辞典でも、元明・元正の両女性天皇から一字ずつ取った追号と説明されています。コトバンク
これは偶然の命名ではありません。
859年ぶりに誕生した女性天皇に、古代の女性天皇二人につながる名が贈られたことになります。
こうして見ると、明正天皇は江戸時代の人物でありながら、奈良時代の女帝の記憶とも結びつけられた存在だったことが分かります。
しかも元明天皇から元正天皇へは、母から娘へ皇位が移っています。
明正天皇自身も、幼い皇子へ皇位をつなぐ役割を期待されて即位したと考えられています。
女性天皇という共通点だけではなく、皇位継承の節目に位置した天皇という意味でも、過去の女性天皇を意識させる追号だったのでしょう。
名前の二文字を知るだけでも、明正天皇が当時どのように歴史の中へ位置づけられたのかが少し見えてきます。
明正天皇をどう評価する?朝廷と徳川幕府の間で生きた女帝
明正天皇の生涯を調べていると、「かわいそうな天皇だった」という印象を持つ方も多いと思います。
私自身も、幼くして突然皇位につき、成長しても十分な政務を担う機会がなく、若いうちに譲位し、その後の行動まで制限された経緯を見ると、本人の意思とは別のところで人生の大枠を決められてしまったように感じます。
ただ、歴史人物を見るときには、現代の価値観だけで「幸せだった」「不幸だった」と決めつけないことも大切です。
明正天皇の心の内を直接示す史料が十分にあるわけではないからです。
一方で、政治史上の意味はかなり明確です。
明正天皇の即位は、江戸幕府が成立して間もない時代に、朝廷と幕府がどのような距離を保つのかを模索していたことを象徴する出来事でした。
徳川家康、秀忠、家光の時代には、徳川政権が朝廷との関係を制度化していきます。
徳川和子の入内はその象徴の一つでした。
徳川家の女性が天皇の后となり、その娘が天皇になれば、徳川家は天皇家の外戚となります。
一見すると、徳川家にとってこれ以上ない成果でしょう。
しかし現実には、それで朝廷が徳川家に完全に取り込まれたわけではありませんでした。
後水尾天皇は紫衣事件などを通じて幕府に強い不満を持ち、幕府の同意を待たずに譲位を実行しました。
その結果として誕生したのが、徳川家の血を引く明正天皇だったのです。
この逆説が実に興味深いところです。
幕府が皇室との結びつきを強く求めた結果生まれた皇女が、今度は後水尾上皇の意思によって皇位につく。
そして成長した明正天皇については、幕府側が政治への関与を警戒する。
朝廷と幕府のどちらか一方がすべてを思い通りにしたわけではありません。
双方が相手の権威を必要とし、同時に相手が強くなりすぎることを警戒する。
私は明正天皇の存在そのものが、そうした江戸初期の「微妙な均衡」を映し出していると考えています。
もう一つ注目したいのは、明正天皇を単に「中継ぎ」と呼んで終わらせないことです。
確かに制度上は、将来生まれる皇子へ皇位をつなぐ役割が期待されていました。
実際、異母弟の後光明天皇へ皇位を譲っています。
しかし、国立国会図書館の研究からは、明正天皇が成長した際に政務を担わせようとする動きが存在したことも分かります。国立国会図書館
もし復辟が実現し、明正天皇自身が政務に関与していたなら、私たちが抱く明正天皇像は大きく違っていたかもしれません。
歴史は結果だけを見ると一本道に見えます。
けれども、その途中には実現しなかったいくつもの可能性があります。
明正天皇の治世にも、「幼い女帝のまま終わる道」だけではなく、成長後に自ら朝廷運営を担う可能性が一時は存在していました。
この点は、明正天皇を考えるうえで、とても重要な視点ではないでしょうか。
明正天皇とは?859年ぶりに即位した理由と背景のまとめ
明正天皇は、後水尾天皇と徳川秀忠の娘・和子の間に生まれた第109代天皇です。
1629年、後水尾天皇の突然の譲位によって幼くして皇位につき、称徳天皇以来859年ぶりの女性天皇となりました。
その即位の背景には、紫衣事件や春日局の参内に象徴される後水尾天皇と江戸幕府との緊張、皇位を継ぐ皇子がいなかった事情、将来の皇子へ皇位をつなぐ構想などが重なっていました。
母が徳川和子であったため、明正天皇は徳川家康の曽孫でもあります。
そのため「徳川将軍家の血を引く天皇」という特別な存在になりましたが、だからこそ退位後に政治的な影響力を持つことを警戒された面もありました。
在位中は父・後水尾上皇が大きな影響力を持ち、明正天皇が成長した後も本格的な政務移譲は実現しませんでした。
1643年には異母弟の後光明天皇へ譲位し、その後は長い上皇時代を送ります。
勧修寺には明正天皇の旧御殿と伝わる宸殿・書院が残り、十禅寺にも寄進品や愛用の人形など、明正天皇との深い縁が今に伝わっています。
そして「明正」という追号は、古代の女性天皇である元明天皇と元正天皇から一字ずつ取ったものです。
明正天皇は、自ら大きな政治改革を行った天皇として知られているわけではありません。
しかしその人生を丁寧に追うと、江戸幕府成立期における皇室と徳川家の距離、女性天皇の位置づけ、そして皇位継承をめぐる政治の複雑さが見えてきます。
歴史の表舞台で声高に自己主張した人物だけが、時代を映す鏡になるわけではありません。
静かな生涯の背後に、朝廷と幕府という二つの大きな力のせめぎ合いが見えることこそ、明正天皇を学ぶ面白さだと私は思います。
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よくある質問
明正天皇は何歳で即位したのですか?
一般には7歳で即位した女性天皇として紹介されます。
ただし、江戸時代の年齢表記と現在の満年齢には違いがあり、史料や研究資料では6歳と記されることもあります。いずれにしても、1629年の即位時にはまだ非常に幼い年齢でした。
明正天皇はなぜ女性なのに天皇になったのですか?
当時、後水尾天皇の後をすぐに継ぐ適当な皇子がいなかったことに加え、後水尾天皇と江戸幕府との関係悪化が大きな背景にあります。
後水尾天皇は、将来皇子が誕生した場合には明正天皇からその皇子へ譲位する考えを持っていたとされ、明正天皇は皇位を次世代へつなぐ役割も期待されていました。
明正天皇の次の女性天皇は誰ですか?
明正天皇の次に即位した女性天皇は、江戸時代後期の後桜町天皇です。
後桜町天皇は1762年に即位し、1770年に後桃園天皇へ譲位しました。江戸時代には明正天皇と後桜町天皇という2人の女性天皇が在位しています。国立国会図書館


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