神功皇后は女帝だったか。三韓征伐と国内平定の実在を探る。

歴史人物

神功(じんぐう)皇后は第14代の仲哀天皇の皇后として伝えられています。仲哀天皇と一緒に熊襲征伐に行き、更には、朝鮮に渡り三韓を征伐したとされています。

また、国内を治め、応神天皇即位まで70年間摂政につき、戦前には第15代の女帝として位置づけられていました。その様子を解説します。

 

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神功皇后の成り立ち

神功皇后は気長足姫(おきながたらしひめ)と呼ばれており、第9代の開花天皇の玄孫・息長宿祢王の娘として生まれています。仲哀天皇2年(360年)に皇后となります。

 

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仲哀天皇と神功皇后の熊襲征伐

仲哀天皇2年に九州の熊襲が反乱を起こしたとの連絡があり親征に出かけます。仲哀天皇8年(366年)に筑紫国において、神託を行ったとき神功皇后は神がかります。

その時のお告げは「熊襲のようなやせた土地を攻めても意味はない、海を渡って西に行き、金銀財宝があふれる新羅を攻めるべし。」とのことでした。

しかし仲哀天皇はこれを疑い、熊襲を攻めますが、失敗してしまいます。そして、翌年崩御してしまいます。

再び神功皇后が神託を行い占ったところ、前年の神託の主は天照大神、住吉三神であることがわかります。この神に従わなかったことが災いの元であることがわかります。

取り敢えず熊襲征伐を続け、土蜘蛛の巫女女王を討ち取ります。これによって九州北部は平定されることになります。

 

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神功皇后の三韓征伐

神功皇后は肥前の松浦で渡海成功の占いをします。何もつけない釣り針を付けて魚がかかれば成功です。なんとこの時にアユがかかったそうです。これで成功間違いなし。

神功皇后は男装して進みます。しかしその時妊娠していたので、月延石、鎮懐石をお腹にあてて、さらしを巻いたとされています。それによって出産を遅らしたそうです。

朝鮮半島に上陸して新羅を攻めたため、新羅は戦わずして降伏し、朝貢することとなりました。また、百済、高句麗も朝貢を約束しました。

そして、朝鮮半島から帰国して筑紫で出産します。誉田(ほむた)別尊、後の応神天皇になります。

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忍熊王との闘い国内平定

翌年神功元年(368年)九州で天皇の殯をおこないます。そして畿内に向かって進みます。

しかし、仲哀天皇の先妻の子麛坂王(かごさかおう)、忍熊王(おしくまおう)、は皇位が奪われてしまうのを恐れて、播磨で迎え撃つことにします。

そこで、この戦いの占いを行います。この戦いに勝てるのであれば、良い猪が獲れると約束し狩りを行いますが、麛坂王は突然出現した赤い猪に食い殺されてしまいます。

このため、これはまずいと悟った忍熊王は一旦住吉まで退却し体制を立て直します。

一方、神功皇后は紀伊に立ち寄り、息子の誉田(ほむた)別尊を預けます。明石海峡を回って武庫川に着き、山城国まで進出します。

ここで一計を案じて偽りの和睦を行ったところを襲います。忍熊王は近江まで逃げますが、瀬田川に入水して亡くなってしまいます。

翌年天皇を河内国長野陵に葬り、その翌年息子の誉田(ほむた)別尊を太子とします。

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神功皇太后の新羅再征伐

神功47年新羅と百済から朝貢してきたところ、百済の貢物がみすぼらしいので、尋ねたところ、百済の貢物を新羅に奪い取られたとの訴えがあった。

神功49年新羅を再征伐することとなった。また、神功62年新羅が朝貢しないため、再征伐を行った。

神功69年神功皇太后は崩御された。100歳と言われています。

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神功皇后は女帝だったか。三韓征伐と国内平定の実在を探る。のまとめ

戦前は歴史上の人物として数えられていました神功皇后の業績を述べてきました。さすがに戦後は実在が疑われていますが、これだけの言い伝えが残っていることから、ある程度のことは推測できると思われます。

熊襲の平定についてはかなり信憑性が高いと思われます。しかし問題となる三韓征伐ですが、あまりに簡単すぎることから、朝鮮半島との国交成立と考えればよろしいのかなと思われます。

実際に戦争となった痕跡もなさそうですし、一年以内に収束したとは考えられないでしょう。

国内平定で、先妻の息子との皇位継承をめぐる争いは実際にあったかもしれません。

まだこの頃は話し合いの時代ですし、話がこじれれば、力がものをいう時代ですから、実際の武力行使もあったことでしょう。

しかし、これらの逸話の中で面白いのは、出産を押さえるために、月延石とか鎮懐石をさらしで腹に巻いたとか、陰部に差し込んだといわれている伝承です。

しかも、月延石については、長崎県壱岐市月讀神社、京都市西京区月読神社、福岡県糸島市鎮懐石八幡宮に納められているそうで、安産のお守りとされているようです。

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