関ヶ原の戦いで事実上天下人になった徳川家康は自らの政権を着実に作っていき、制度化していきます。もはや彼の動きを止めるものはないので、既成事実として徳川幕府は形成されていくのです。
最後の問題は豊臣秀頼でした。もはや3ヵ国65万石の大名に過ぎないとはいえ、官位も立派に持っています、しかも西国大名は秀頼に年賀の挨拶を続ける始末です。
かって、家康が秀吉に臣従したように、豊臣秀頼が徳川家康に臣従してくれればそれなりの道もあるのですが、どうなるのでしょうか。
九条兼孝の関白就任と徳川家康の征夷大将軍就任
慶長5年(1601年)かって豊臣秀次が就任していた関白職に九条兼孝が就任します。これも徳川家康の奏上によるものです。
これによって、豊臣氏の関白職世襲が破られることになります。もっとも、豊臣秀吉以前の体制に戻っただけですが。こう思うと、豊臣秀次を排除したことは秀吉最大の失敗だったといえるでしょう。
慶長8年(1603年)徳川家康は右大臣、征夷大将軍に任命されます。これに依って幕府設立が可能となります。豊臣秀頼は徳川秀忠の娘の千姫と結婚することになります。
少なくとも、この時では徳川家康は豊臣家を滅亡させようとは思っていなかったのではないでしょうか。
慶長10年(1605年)徳川家康は将軍職を辞し、嫡男秀忠が将軍となります。これで、世襲制への道が開けることになります。大阪城の淀殿は相当怒っているでしょうが,何ともならないでしょう。
ちょうどこの時期、空いた右大臣に豊臣秀頼が就くことになります。この時から豊臣家としては方針転換する必要があったと考えます。
すでに軍事的に徳川の優位は崩せない状況であるのは明白です。しかも、徳川家康は決して政権を手放さない意思も示しています。
朝廷は豊臣家を公家の一部と考えているので軍事面での成功を放棄すれば、生き残る道があったのではないでしょうか。
慶長12年(1607年)徳川家康は駿府に移動して、大御所として勢力をふるいます。この時期に豊臣秀頼は右大臣を辞しています。これが退路を断つことになってしまうのです。
公家の道を歩んで、徳川家の親戚としてふるまっていれば、滅ぼされることもなかったのです。プライドはあっても本当に徳川幕府を圧倒するだけの実力がない以上従うしかないんです。
これは、家康自身も豊臣秀吉にとった方法です。
慶長16年(1611年)徳川家康と豊臣秀頼の二条城での会見となります。最初、秀頼は断ろうとしましたが、織田有楽斎などの仲介もあり、加藤清正など豊臣恩顧の武将の手前もあり、面会となったのです。
秀頼はすっかり成長していて身長は190㎝もある堂々たる偉丈夫であったとのことです。立ち振る舞いも堂々として、家康ですら圧倒される様子であったといわれています。
結局この時の会見が悪い方向に幸いします。あまりにも立派に成長した秀頼の様子に家康は危険を感じたようです。
もし、この秀頼が成長して、豊臣恩顧の大名に担がれたときには、幕府にとっても脅威となる可能性があります。しかも、衰えたとはいえ、まだ豊臣家は諸国の大名が挨拶に来るなど、礼を尽くしている状況でもあります。
まして、将軍家の秀忠と弟の関係もしっくりいっていないという不安もありました。こんなことから、家康は後顧の憂いをなくすために、豊臣家の滅亡を考えたようです。
ここが、秀頼にとっての、引き返す、ラストチャンスだったようです。
秀頼も淀殿ももはや天下の政権を決して徳川が手放さないことは、分かっていたはずです。諸国の大名についてもその程度の冷静な分析をすれば、豊臣に付く大名はほとんどいないこともわかっていたはずです。
豊臣恩顧の大名も老齢のためどんどん亡くなっていきます。
【片桐且元】 豊臣(羽柴)秀吉の家臣で「賤ヶ岳の七本槍」の一人。豊臣秀頼の傅役となったが、徳川家康とも懇意にし、両家の調整役となった。大坂の陣直前まで、両家の調整に努めたが叶わず、徳川方に与した。『#真田丸』#小林隆 pic.twitter.com/y5UAUkE3hM
— 戦国時代の個性的な人物を偏見で紹介 (@zh2wltGC3jMNOdf) July 6, 2021
大阪冬の陣、夏の陣
慶長19年(1614年)豊臣氏は家康の勧めで方広寺再建を進めていました。その梵鐘の銘文が問題となります。現在でも方広寺の梵鐘は当時のものが残っています。問題の「国家安康 君臣豊楽」が今でもはっきり読みとれます。
いずれにしろこの文言により、家康の諱を分断して使用して、呪っているとの指摘を家康はします。確かに、当時の常識からすれば、諱は避けるべきであったとは思われますが、やはりかなり強引に持って行ったのでしょう。
秀頼もこの収拾に苦労をしましたが、仲裁にあたった家老を家康と内通しているとして追放してしまいます。一方徳川方は豊臣氏が軍備を増強して戦いに備えているとして、豊臣氏を攻撃することになります。
ここでこの収拾を巡っていくつかの混乱があったことも事実でしょうが、徳川家康としてはもう腹は決まっていたことでしょう。
あとは、大坂冬の陣、夏の陣という経過を経て、豊臣氏は滅びてしまいます。
方広寺鐘銘事件でワシが気になっておるのは、「国家安康」の部分が(ここだよ!)みたいに印が付いてるというか、強調されてるじゃないですか。
アレ、誰がやったのかしら?
実物でしょ!レプリカだとしても、やりすぎじゃないかしら。良かれと思っての事でしょうけれど。 pic.twitter.com/7y8ABW329s
— 有名な戦国武将【毛屋 主水 武久】 (@wagashi_busho) July 6, 2021
徳川家康はなぜ豊臣秀頼を滅亡させたかのまとめ
関ヶ原の戦い以降の大坂冬の陣、夏の陣までを駆け足で説明しました。やはり客観的な状況判断が、身を助ける事例となるでしょう。
いくら、豊臣秀吉の時の栄光があったとしても、関ヶ原の戦い以降は、もはや豊臣家に味方する大名はほとんどいないのです。
戦いになれば100%滅亡するのは明らかだったはずです。それなら、身を低くして、かって、徳川家康が行ったように、家康の臣下になってしまって、将来を待てばよいのです。
我々の今の価値観だとこうなりますが、当時は違っていたのでしょうか。
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