【驚きの過去】「カミソリ大臣」陸奥宗光が国家転覆罪で投獄されていた事実とは?

歴史人物

明治時代を代表する政治家、そして日本外交の礎を築いた「カミソリ大臣」こと陸奥宗光。皆さんは彼の名前を歴史の教科書で一度は目にしたことがあるのではないでしょうか?特に、日清戦争後に外国人の治外法権撤廃という、当時の日本にとって非常に重要な不平等条約の改正を成し遂げた人物として、その功績は高く評価されています。

その卓越した手腕から「カミソリ」と称され、部下からは恐れられるほどだったとも伝えられています。しかし、そんな輝かしい功績の裏には、あまり知られていない驚くべき過去が隠されています。実は陸奥宗光は、若かりし頃に国家転覆の罪で5年間も投獄されていた「前科者」だったのです。

一体なぜ、日本の近代化に尽力した彼が、国家に反逆するような罪で投獄されることになったのでしょうか?そして、その後の彼の人生にどのような影響を与えたのでしょうか?この記事では、陸奥宗光の「隠された過去」に焦点を当て、その波乱に満ちた生涯を、歴史が苦手な方にも分かりやすく、丁寧にご紹介していきます。

彼の挫折と、そこからの驚くべき再起の物語を通して、皆さんの歴史への興味が深まれば幸いです。

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なぜ?陸奥宗光が国家転覆罪で投獄された背景を探る

陸奥宗光が投獄されることになったきっかけは、明治10年(1877年)に起こった西南戦争でした。これは、明治政府への不満を抱く士族たちが起こした大規模な反乱であり、旧士族の動きとしては最後の大きな戦いでした。

この西南戦争の混乱に乗じて、自由民権運動の活動家たちが様々な動きを見せます。中には、この状況を利用して政府を倒そうと計画する者たちも現れたのです。

西南戦争に便乗した「土佐立志社」の挙兵計画とは?

陸奥宗光の投獄事件に深く関わっているのが、自由民権運動の政治団体「土佐立志社(とさりっししゃ)」です。土佐立志社の中心人物であった林有造(はやし ゆうぞう)大江卓(おおえ たく)らは、西南戦争の機に乗じて政府要人の暗殺や挙兵を計画していました。

この頃、政府と意見が合わず、一時的に職を辞していた板垣退助(いたがき たいすけ)後藤象二郎(ごとう しょうじろう)といった、土佐出身の有力政治家とも連絡を取り合っていたと言われています。

陸奥宗光は、現在の和歌山県にあたる紀州藩の出身ですが、若い頃に坂本龍馬(さかもと りょうま)の海援隊(かいえんたい)に所属していました。この海援隊での縁から、土佐藩出身者との交流が深く、彼らから秘密裏にこの挙兵計画の相談を受けていたのです。

当時の陸奥宗光は、政府の重要機関である元老院議官(げんろういんぎかん)という高い地位にありました。にもかかわらず、彼はこの計画に対して様々なアドバイスを与えていたとされています。政府の内部にいながら、反政府勢力と裏で通じていたというのは、驚くべきことですよね。

知ってましたか?

この計画は、どうやら当時の政府の中心人物である大久保利通(おおくぼ としみち)によって察知されていたようです。そのため、計画は様々な妨害を受け、資金調達や武器の準備が思うように進まなかったとされています。さらに、彼らの期待に反して西南戦争は薩摩軍にとって不利な展開となり、明治10年(1877年)9月には終結してしまいます。

「立志社の獄」:計画が露見し、関係者が次々と逮捕へ

西南戦争中に薩摩軍との連絡を取り合っていたことが発覚し、明治10年(1877年)8月には林有造が逮捕されます。これを皮切りに、土佐立志社の関係者が次々と捕らえられていきました。そして、明治11年(1878年)5月には大江卓が逮捕され、その流れで6月には陸奥宗光も拘引されることになります。

逮捕されるまでの間、陸奥宗光は非常に神経質になっていたという記録も残っています。また、その後の裁判では、あの「カミソリ」と称された陸奥宗光とは思えないほど、必死に無罪を勝ち取ろうとしたと伝えられています。普段の彼からは想像できないような、往生際の悪さだったのかもしれませんね。

そして、明治11年(1878年)8月20日、最高裁判所にあたる大審院(だいしんいん)から判決が下されます。

  • 禁獄10年:4名
  • 禁獄5年:2名(そのうちの一人が和歌山県士族の陸奥宗光)
  • 禁獄3年:1名
  • 禁獄2年:1名
  • 禁獄1年:8名
  • 禁獄6ヵ月:1名
  • 禁獄100日:2名
  • 棒鎖7日:1名

陸奥宗光は、最も重い刑の一つである「禁獄5年」を言い渡され、9月には山形監獄へと送られてしまいます。しかし、この山形監獄は、当時の政府の要人であった伊藤博文(いとう ひろぶみ)の配慮で、比較的快適な環境が選ばれたという話も残っています。この点も、後述する陸奥と伊藤の関係を考える上で興味深いですね。

当時の事件を伝えるツイートから、陸奥宗光が事件に関与していたことが伺えます。

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なぜ、陸奥宗光は危険な計画に関わったのか?その内面に迫る

紀州藩出身の陸奥宗光が、なぜ土佐立志社の計画に関わることになったのでしょうか?その背景には、彼のこれまでの経験と、当時の政府に対する複雑な感情があったと言われています。

坂本龍馬も認めた才能と「藩閥政治」への不満

陸奥宗光は若い頃、坂本龍馬が率いる海援隊に所属し、その才能を大きく開花させました。坂本龍馬は陸奥宗光の才覚を高く評価しており、「海援隊の中でも、二本差し(武士の象徴)をなくしても生きていけるのは、俺と陸奥ぐらいだ。」とまで語っていたそうです。陸奥は確かに様々な場面で活躍しましたが、その切れ者ぶりゆえに、周囲の隊員からは少し煙たがられていた一面もあったようです。

明治維新後、その才能を見込まれて新政府に仕え、順調に出世していきます。しかし、当時の政府は薩摩・長州・土佐・肥前(いわゆる薩長土肥)といった特定の藩出身者が要職を占める「藩閥政治(はんばつせいじ)」でした。陸奥宗光は、自分よりも能力が劣る人物が、ただ出身藩が違うというだけで高い地位に就いていくことに我慢ができなかったと言われています。

こうした不満が募り、次第に明治政府に反感を抱くようになっていったと考えられています。

したたかな「両天秤作戦」の結末

そんな中、西南戦争が勃発します。陸奥宗光は非常に先見の明がある人物でしたから、この戦争の行方を冷静に見極めていたと考えられます。もしかしたら、彼は薩摩軍が勝利する可能性も想定し、明治政府と反政府勢力の「両天秤」にかけていたのかもしれません。

彼は政府からは離れず、政府の要人に対しては反乱軍の鎮圧を呼びかける一方で、水面下では秘密裏に反政府勢力と関係を持っていたとされています。このあたりの行動は、彼のしたたかさや、時に「陰険」と評される所以でもあったようです。

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投獄中の学びと再起:陸奥宗光を支えたもの

国家転覆の罪で投獄された陸奥宗光は、この苦境をどのように乗り越えたのでしょうか?意外にも、彼はこの期間を自己研鑽の絶好の機会と捉えていたようです。

獄中での勉学とジェレミ・ベンサムとの出会い

陸奥宗光は獄中で、イギリスの思想家ジェレミ・ベンサム(Jeremy Bentham)の主著『道徳および立法の諸原理序説(Principle of Moral and Legislation)』の翻訳を手がけています。これは、彼が国際的な法制度や政治思想に関心を抱いていたことを示しており、後の外交官としての活躍に繋がる重要な学びの機会でした。

宮城監獄の典獄日記にも、陸奥宗光が勉学に励んでいたことが記されているようです。

明治16年(1883年)、陸奥宗光は特赦(とくしゃ)によって出獄します。そして、彼を高く評価していた伊藤博文の勧めで、ヨーロッパへの留学を決意します。この留学中に、彼は近代内閣制度について猛勉強したと言われています。まさに、凡人には真似できない、逆境をバネにする才能と精神力があったのですね。

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劇的な政界復帰!陸奥宗光が成し遂げた偉業

5年間の投獄、そして海外留学を経て、陸奥宗光はどのようにして日本の政界に返り咲いたのでしょうか?そして、いかにして「カミソリ大臣」として名を馳せることになったのでしょうか?

外交官としての輝かしい第一歩:日墨修好通商条約の締結

明治19年(1886年)、帰国した陸奥宗光は外務省に出仕します。そして明治21年(1888年)には、駐米公使(ちゅうべいこうし)としてアメリカ合衆国に赴任し、さらに駐メキシコ公使も兼任します。

ここで彼は、日本にとって非常に画期的な成果を挙げます。それが、日本初の「平等条約」である日墨修好通商条約(にちぼくしゅうこうつうしょうじょうやく)の締結です。この条約は、日本が欧米列強との間で結んでいた不平等条約(領事裁判権や関税自主権の欠如など)とは異なり、メキシコとの間に真に対等な関係を築くものでした。

やはり、本当に能力のある人は、周囲の助けも得やすく、確実に結果を出すことができるのですね。

明治天皇の反対を押し切った山縣有朋の「人材登用」

帰国後、陸奥宗光は第1次山縣内閣の農商務大臣(のうしょうむだいじん)に就任します。しかし、この人事はすんなりとはいきませんでした。山縣有朋(やまがた ありとも)が陸奥宗光を大臣として入閣させようと明治天皇に奏上(そうじょう:天皇に申し上げること)した際、明治天皇は、陸奥宗光が明治10年の事件(国家転覆罪)に関わっていたことから、その人柄を信用できないと難色を示したと言われています。

それでも山縣有朋が陸奥を強引に入閣させたのは、よほど彼の能力を買っていたからに他なりません。結果として、この陸奥宗光の入閣が、後の不平等条約改正という国家の大事業へと繋がっていくのですから、山縣有朋の人材登用はまさに的を射ていたと言えるでしょう。

不平等条約改正の立役者として、陸奥宗光の功績は大きく評価されています。

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陸奥宗光の「隠された過去」が教えてくれること

陸奥宗光は、この国家転覆事件について、生涯あまり語ることがなかったと言われています。彼にとって、この事件はまさに「一生の不覚」と呼べるほど、深く心に刻まれた出来事だったのでしょう。幸いにも、計画は未遂に終わり、彼が実行犯となることはありませんでした。もし実行犯であったなら、その後の政界復帰は非常に困難だったはずです。

しかし、この事件にはさらに驚くべき話が残っています。計画段階で陸奥宗光が暗殺リストを照会された際、リストに「欠けている人物がいる」と述べ、自ら伊藤博文の名前を書き加えたというのです。伊藤博文は、陸奥宗光をこれまで引き立ててくれた大恩人です。周囲の者が伊藤の名前をリストに入れるのをためらう中、彼が自ら書き加えたという話には、驚きを隠せません。

さらに不思議なのは、伊藤博文も逮捕時にこの情報を知っていたはずなのに、その後も陸奥宗光の面倒を見続け、政界復帰を後押ししたという点です。これは、伊藤博文の人間的な器の大きさなのか、それとも現代の私たちには想像できない、当時の政治家たちの独特な人間関係のあり方を示すものなのかもしれません。

陸奥宗光のこの「隠された過去」は、彼が決して完璧な人間ではなく、若き日に大きな挫折を経験しながらも、それを乗り越えて偉大な功績を成し遂げた人物であったことを私たちに教えてくれます。彼の波乱に満ちた生涯は、私たちに「挫折からの学び」と「諦めない心」の大切さを語りかけているのではないでしょうか。

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