北白川宮能久(よしひさ)親王は幕末に生まれ、幕末の動乱にあっては奥羽越列藩同盟の盟主となります。また、明治時代には陸軍に入りドイツ留学にドイツ貴族と婚約し、帰国してからは台湾に出兵しそこで亡くなるなどの波乱万丈の人生を歩んだ方です。そのため日本武尊にも例えられております。その波乱の人生をご紹介します。
北白川宮能久親王の生まれと奥羽越列藩同盟の盟主になるいきさつは
北白川宮能久(よしひさ)親王は1847年(弘化4年)4月伏見宮邦家親王の第9子として生まれます。輪王寺宮と名付けられていました。
1848年(嘉永元年)には清連院宮の附弟となり、亡き仁孝天皇の猶子とされます。1858年には輪王寺宮慈性入道親王の附弟となり、得度します。
1867年(慶応3年)江戸の寛永寺に入り、寛永寺貫主、日光輪王寺門跡を継承しました。
戊辰戦争が始まると能久親王は幕府のために尽力することに
輪王寺宮は前将軍の徳川慶喜の依頼を受けて、駿府城に東征大総督有栖川熾仁親王を田恒、慶喜の助命と東征中止の嘆願にむかいます。うまくいけば、勝海舟の出番はなかったのでしょうが。
しかしこれは不調に終わりました。政府軍が江戸に入ると、輪王寺宮に京都に戻るよう勧められますが、これを拒否します。
最初の会談で、なんだかのわだかまりが生じてきたのでしょう。幕末の政治とは無縁で育ってきましたが、朝廷からも引き離されていたので、事情を知ってうまく立ち回ることができなかったのでしょう。
江戸を抜け出して奥羽越列藩同盟の盟主に
彰義隊の敗北によって、寛永寺を脱出して、榎本武揚率いる幕府の軍艦に乗り込み東北に向かいます。これではまるで新選組と変わりませんよね。
そして、会津、米沢を経て仙台藩に身を寄せて、奥羽越列藩同盟の盟主に擁立させられています。これによって完全に官軍と敵対することになってしまいます。
ここで面白いうわさが立っています。
どうやら輪王寺宮が天皇に擁立されたといううわさがあるのです。名称も「東武天皇」となって、元号を「大政」としたということになっています。
アメリカではこのことを本国に伝えたようで、二人の帝がいると現地の新聞では掲載されたようです。
結局は9月15日に仙台藩は新政府軍に降伏し、輪王寺宮も京都に送られて実家の伏見宮家で謹慎処分となります。仁孝天皇の猶子と親王の身分を解かれてしまいます。
まあ、これだけはっきりと敵対したのですから仕方がないでしょうね。
北の丸公園の北白川宮能久親王銅像,伏見宮家の皇子で輪王寺宮家を相続し公現法親王と称し寛永寺門跡に,上野戦争に巻き込まれ一時は徳川方,明治28年10月近衛師団を率いて出兵した台湾で病没,銅像は元位置から60メートル移動,吉村昭『彰義隊』は宮の数奇な運命を描いた小説でとても印象に残っている. pic.twitter.com/3MbJN8u62x
— ちびすけ (@muzzle2020) May 12, 2019
明治になり、能久親王ドイツに留学する。ここでも一波乱
こうした謹慎処分もやがて解けて、1830年(明治3年)にはプロセインに留学することになります。本当はイギリスへの留学を希望していたのですが、なぜかドイツになってしまいました。
そして2年後には北白川宮を相続することになります。ドイツでは、陸軍大学校で学ぶことになります。1872年(明治7年)には陸軍少佐になります。ここまでは順調だったのですが。
1876年(明治9年)ドイツの貴族の未亡人ベルタと婚約してしまいます。この方は、ブレドウ・ヴァーゲニッツ男爵の娘ですので、それほどおかしくはないのです。
翌年、明治政府に結婚の許可を求めます。さすがに政府もびっくりしたことでしょう。政府はとりあえず親王に帰国を求めますが、親王は帰国直前に新聞で婚約の発表してしまいます。
結構、大胆な方ですね。自由奔放と言えばそうですが。結局、周りから説得されて、婚約は破棄させられ、3ヵ月の謹慎処分となります。また、謹慎でしたね。
その後は懲りたのか、陸軍の職務に励み、仁孝天皇の猶子、親王の復帰、陸軍少将、中将に昇進していきます。
結局奥羽越列藩同盟は瓦解、「東北新政府」もなかったことになり「東武皇帝」輪王寺宮は謹慎処分ということになります。新元号「大政」の時代もおとずれず明治がやってくるわけですが、輪王寺宮は蟄居後もろもろ変遷を経て北白川宮能久親王と名乗られることになります。その明治7年のお写真がこちら。 pic.twitter.com/NOJcLFCFRk
— ミサンザイ 同人誌 「天皇を旅する本」 「まんが東京ご縁起めぐり」 (@katsunomisanzai) April 21, 2020
北白川宮能久親王親王台湾で没する
1895年(明治28年)台湾征討近衛師団長として出征します。ところが現地でマラリアにかかり、台湾平定直前に台南で薨去します。皇族として初めての外地での殉職者になりました。
親王家の庶子として生まれ、江戸で僧侶として暮らし、一時は朝敵となって仙台で暮らし、ドイツに学び、台湾で病死をするという変転の多い人生を、日本武尊に例えられました。
明治28始政紀念日留影、地點為臺灣總督府後花園
中央為北白川宮能久親王與首任總督樺山資紀
BY 帝國の臺灣 pic.twitter.com/44DxyES2VS— carl lin (@carl_lin_tw) March 9, 2021
北白川宮能久親王の第一王子から竹田宮家が創設される
ドイツでの結婚に失敗してから、日本で結婚することになります。能久親王からは、六人の王子、五人の王女が生まれています。
後室から生まれた、第三王子宮成が北白川宮を継ぐことになります。そして、側室から生まれた第一王子が竹田宮恒久王が明治天皇の第六皇女昌子内親王と結婚します。
この方が、竹田宮家の創始者となります。一番新しいと言われている竹田宮家の始まりはこの方からです。
そして、最後にもう一波乱ありました。能久親王の薨去後に、別々の外妾から第五王子と第六王子の申し出がありました。親王はなくなっていたので認知のしようありませんでしたが、調査の結果認知することとなりました。
ただ平民の子が宮家の一員として暮らすことは不都合であるとして、明治天皇から「二荒」、「上野」の家名を下賜して、この二人を伯爵に叙すこととしました。当時はこんなように貴族が増えていった時代だったようです。
北白川宮能久親王、朝敵の盟主となり日本武尊に例えられた人生のまとめ
北白川宮能久親王の人生は、なかなか波乱万丈だったようですね。しかも、戊辰戦争の時、皇室の一員が幕府側にいたとは驚きでした。
それにしても、どうして官軍との説得に応じなかったのかは謎のままです。有栖川宮との話し合いで何があったかもさっぱりわかりません。
明治の代になってもご説明の通りで、自由奔放に駆け抜けていったような印象を受けます。そんな中から新しい竹田宮家が創設されたのも面白かったでしょう。
皇居周りにはいくつかの銅像が立っています。その中で騎馬姿の立派な像が、北の丸公園にあります。いったい誰なのかと気になっていましたが、この主人公が北白川宮能久親王です。一度ご覧いただければ幸いです。
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