伊藤博文、日本の初代内閣総理大臣として知られるこの人物の私生活は、彼の政治的業績と同じくらい興味深いものです。伊藤すみ子、そして後に結婚した伊藤梅子との関係を通じて、彼の人間性と家族への深い愛情を探ります。
伊藤博文の生涯と業績
私が初めて伊藤博文のことを深く知ったのは、大学の歴史の授業でした。彼の人生は日本の近代化において、欠かせない部分であります。
初代内閣総理大臣としての道
伊藤博文は日本の初代内閣総理大臣として、国の近代化を牽引しました。彼は明治維新の重要な役割を果たし、日本の政治体制を大きく変えた人物です。
その役割は単に政治家としてに留まらず、教育や法制度の近代化にも力を注ぎました。彼のビジョンは、西洋の知識を取り入れながら、日本独自の文化を保持することにありました。
伊藤博文の暗殺事件とその影響
伊藤博文の暗殺は、日本だけでなく世界にも大きな衝撃を与えました。彼の死は、日本の政治における大きな転換点となりました。
彼の暗殺後、日本の政治は不安定な時期を迎えましたが、彼の築いた基盤は、後の日本の発展に不可欠なものとなりました。伊藤博文の死は、日本の近代化への道のりにおける悲劇的な一ページです。
このような彼の功績と運命は、私たちに多くの教訓を与えています。伊藤博文の生涯を振り返ることで、我々は日本の近代化の歴史を深く理解することができます。
伊藤すみ子:最初の妻としての役割
伊藤博文と伊藤すみ子の出会いは、日本の政治史における重要な一面を映し出しています。伊藤博文が活躍する政治の舞台裏で、彼を支えたのはすみ子の存在でした。
伊藤すみ子との出会い
伊藤博文は若いころ禁門の変で斃れた松下村塾の先輩にあたる入江九一の妹すみ子を嫁にもらいます。
この人は松下村塾の同輩でもあり、後の伊藤博文内閣の内務大臣になった野村靖の妹でもあります。
ここまでは良かったのですが、その後、下関の芸者小梅と関係し、子供までできてしまいました。このため、先妻のすみ子は離縁されてしまいます。
浮気の相手の妊娠で、正妻が離縁されるなんて本末転倒ですが、気の毒なことでした。すみ子は再婚したそうです。
家族としての生活
伊藤家では、すみ子が家庭の中心となり、夫の政治生活を支える一方で、子どもたちの教育にも尽力しました。
すみ子の存在は、伊藤博文が政治の世界で戦う上での精神的な支柱であり、彼女なしでは彼の成功も違っていたかもしれません。
二人の関係は、単なる夫婦以上のものであったと言われています。すみ子は、夫の政治活動を理解し、時には助言者としても機能したのです。
このようにして、伊藤博文と伊藤すみ子の関係は、日本近代化の歩みと深く結びついています。彼らの生活からは、当時の日本の家庭像や女性の役割についても多くの示唆を得ることができるのです。
伊藤梅子:後の妻としての献身
伊藤博文の後の人生において、伊藤梅子は替えがたい存在となりました。彼女の影響は、単に家庭内に留まらず、伊藤博文の政治活動にも及びました。
伊藤梅子との結婚生活
その小梅とは1866年に結婚しています。これ以降は再婚しておりませんので、2名だけとなります。
意外とあっけない感じがしますが、小梅変じて梅子という女性は大変偉い人でした。梅子は大変に向学心が強く、和歌を学び、英語まで学び、婦徳の鑑とまで称されているそうです。
何しろ、伊藤博文は次々と芸者を家に連れてきて、一緒に寝泊まりするし、お金も全部使ってしまうという性質でしたが、梅子は連れ込んだ芸者の世話をしたり、お化粧の手伝いをしたり、お土産まで持たせたといわれています。よくできた奥さんと言えば奥さんですよね。
博文が暗殺されたときにも涙一つ見せなかったといわれていますが、直後に「国のため光りをそえてゆきましし 君とし思へどかなしかりけり」と和歌を詠んだといわれています。
日本初のファーストレディ・伊藤梅子
勝ち気で向学心に富み克己心が強かったとの評判で、もともと字も書けなかったのに下田歌子から和歌を学び、津田梅子からは英語を習得、英語で手紙が書けるまでになった。「人間、これが大事と思うときは、真剣にやらなければなりません。」と腹が座っていた。 pic.twitter.com/VXevd5IK01— kumokiri-kintoun (@KumokiriK) October 28, 2020
良妻賢母としての貢献
伊藤梅子は、当時の女性像である「良妻賢母」の理想を体現していました。彼女は家庭を守り、子どもたちの教育にも深く関わりました。
梅子の存在は、伊藤家にとっての柱であり、彼女の教育は伊藤家の子どもたちが社会で成功する基盤となりました。
伊藤梅子の献身と努力は、伊藤博文の政治的業績だけでなく、家庭内でも彼の成功を支える重要な役割を果たしました。彼女の貢献は、今もなお伊藤家の歴史の中で語り継がれています。
伊藤博文の子供たち
伊藤博文と関係した女性は数えきれないほどでしたが、子供は意外とできなかったようです。何十人と言われている渋沢栄一とか徳川慶喜ほどではなく、生まれたのは6人で、育ったのは5人だけでした。
長女貞子
長女の貞子は夭逝します。
二女生子
二女生子は母が梅子です。後に内務大臣になる末松謙澄(けんちょう)に嫁ぎます。
末松謙澄は豊前国に生まれ、勉学の末、東京日日新聞に勤めます。やがて社長福地源一郎の仲介で伊藤博文の知遇を得て、政府に入ります。
日朝修好条規の起草、西南戦争では降伏勧告状の起草もしています。イギリス留学中には、1879年に義経=ジンギスカン説を唱える論文を発表しています。生子とは帰国後の1889年に結婚しています。
その後、法制局長官、男爵、貴族院議員、逓信大臣、内務大臣、子爵、帝国学士院会員を歴任しています。1920年にスペイン風邪のため亡くなっています。
三女朝子
三女朝子は母が伊藤家の女中でした。西源四郎は長門国の出身です。外務省に勤めます。シャム特命全権公使、ルーマニア特命全権公使になっております。
この方の系統からは外務省関係者が多く出ております。松本剛明衆議院議員、元外務大臣も玄孫にあたります。
長男文吉
長男文吉は庶子ですが、後に伊藤家の養子になります。日本鉱業の社長になります。男爵の爵位をもらいます。
二男眞一
二男眞一の母は新橋の芸者・歌です。満鉄大阪事務所長を務めます。
四女澤子
四女澤子も庶子です。戸籍上は日高憲明の二女ですが、後に二女の生子夫妻の養女となります。
西大井駅近く。
元総理大臣伊藤博文先生の眠る墓地。4月21日🙏暗殺という事からか?お墓を荒らされない様に柵がしてありますが、隣の公園から少しだけ見えます。
女遊びが激しく明治天皇に窘められたり、屋敷を失う🤭
総理大臣が家無いのは問題だから今の官邸が出来た話もあり🤯🤭 pic.twitter.com/6tDsRSqmXB— HOMURA 焔 0909 いいね直りました🙏🙌💕 (@Jr7QwMZGcHXgTP7) June 18, 2021
伊藤博文の女好き、女癖のエピソードは
伊藤博文はとにかく亡くなるまで、病気だろうが、仕事中だろうが、国家の大事の戦争、条約締結交渉時でも、一貫して女性を求めていたのですから、ほぼ病気のようなものです。
基本的には芸者が相手ですので、当時としてはそれほどスキャンダルになることもなかったようです。
本人もそんなことは最初から認めているようですし、気にもしなかったようです。それでも、こんなエピソードが。
相手にしてはいけない相手に手を出して
伊藤博文は鹿鳴館時代にパーティに参加しますが、この時に戸田極子(とだきわこ)に夢中になってしまいます。
戸田極子は岩倉具視公爵の三女で美濃国大垣藩知事の戸田氏共伯爵の妻になっていました。その美貌から鹿鳴館の華と呼ばれていました。
いくら総理大臣でも相手が相手ですから遠慮しておればいいものを、関係を迫ったとも言われています。一説には、極子は鹿鳴館から裸足で脱出したとも言われています。
そんなことですから、さすがに当時としても大きなスキャンダルになったようです。伊藤博文が1888年に首相を辞任したのは、日本国憲法を起草する枢密院議長に就任するためと公式には言われていますが、このスキャンダルが原因とする説もあります。
戸田 極子(とだ きわこ、1858年1月9日(安政4年11月25日)- 1936年(昭和11年)3月11日)は、岩倉具視公爵令嬢。華族・戸田氏共伯爵夫人。優雅な物腰と美貌から陸奥亮子と共に「鹿鳴館の華」といわれた。 pic.twitter.com/caEJ5AaMOl
— デジミ【D.M.C】official (@DigitalMixComp) May 23, 2020
明治天皇のお叱りもなんのその
伊藤博文の女癖があまりにも醜いため、ついに明治天皇が直々にお叱りしたとも言われています。
それでも堂々と、自分は秘かに囲い者を置いているのではなく、公認の芸者と堂々と遊んでいるだけです。と答えたようですから、立派なものです。
確かに、伊藤博文の場合は何も隠し立てせずに、ひたすら遊んでいるのですから立派と言えば立派なものです。
ヒヒの姿をして大勢の女を食いまくる伊藤博文。神社に伊藤の子分が伊藤博文の銅像を建てたが「神聖なる神社に好色爺の銅像を建てるなど不埒なり」としてフンドシで銅像が引き倒された図。 pic.twitter.com/VYEd9K6ij1
— 竹熊健太郎《地球人》 (@kentaro666) August 31, 2018
伊藤博文の女好き、女癖のエピソードとその妻子のまとめ
伊藤博文と言えば大日本帝国憲法の発案者であり、大久保利通亡き後の日本の骨格を形作る様々な制度を作って生きた人です。その業績は言い尽くせないくらいです。
しかしながら、その一方ではこんなような一面もあったということです。表の世界で理を尽くして物事を突き詰めていった一方、こんな生き抜きをしていたのでしょう。人間とはわからないものです。
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