皆さん、日本の歴史上の天皇と聞いて、どんな方を思い浮かべますか? 聖徳太子や織田信長のような、誰もが知る有名人物が多いかもしれませんね。でも、古代史には、現代の私たちにも驚きと感動を与える、波乱万丈な生涯を送った女性の天皇がいました。
今回は、史上二人目の女帝であり、なんと一度退位した後にもう一度天皇の位に就いた(重祚(ちょうそ)といいます)という、非常に珍しい経歴を持つ皇極(こうぎょく)天皇と、その後の姿である斉明(さいめい)天皇について、一緒にひも解いていきましょう。
彼女が生きた時代は、あの有名な「乙巳の変(いっしのへん)」や「大化の改新」が起こり、さらに朝鮮半島との関係も緊迫していた、まさに「激動」の時代でした。そんな困難な時代をどのように乗り越え、何を残したのでしょうか?
この記事でわかること
- 皇極天皇(斉明天皇)が、日本の歴史においてどのような位置づけの人物だったのか。
- 彼女が天皇になるまでの生い立ちと背景、そして当時の皇位継承をめぐる複雑な事情。
- 在位中に起こった重要な出来事、特に「乙巳の変」が彼女とどのように関わっていたのか。
- 一度退位してから再び天皇になった「重祚」という珍しい経緯とその時代の背景。
- 激動の時代を生きた皇極天皇(斉明天皇)の人物像とその功績。
さあ、日本の古代史に足を踏み入れ、皇極天皇・斉明天皇の魅力に迫ってみましょう!
皇極天皇、二度天皇になった女帝の誕生
まず、皇極天皇がどのような生い立ちだったのかを見ていきましょう。
宝女王(たからのおおきみ)の誕生と皇室への縁
皇極天皇は、西暦594年(今からおよそ1400年前!)に生まれました。天皇になる前は、宝女王(たからのおおきみ)という名前で呼ばれていました。彼女は、第30代敏達(びだつ)天皇の皇子である押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ)の孫にあたる女性です。
そして、なんと自分の伯父にあたる第34代舒明(じょめい)天皇の皇后となります。舒明天皇2年(630年)に皇后となったとされていますから、この時、彼女は37歳。現代の感覚でも若くはないですが、当時としてはかなり遅い年齢での立后(りっこう:皇后になること)でしたね。
舒明天皇との間には、後に日本史を大きく動かすことになる3人の皇子・皇女をもうけます。それが、皆さんご存知の中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)(後の第38代天智天皇)、間人皇女(はしひとのひめみこ)(後の第36代孝徳天皇の皇后)、そして大海人皇子(おおあまのおうじ)(後の第40代天武天皇)です。天智天皇が626年頃、天武天皇が630年頃の生まれと推定されていますから、皇后になる前から舒明天皇のもとで生活していたことがわかります。
今日は「乙巳の変」が起こった日。
皇極天皇4(645)年、中大兄皇子と中臣鎌足が組んで蘇我入鹿を滅ぼした。
同時に父の蘇我稲目の館も襲撃し、完全に政権を掌握。以後、天皇中心の国づくりを進めていくこととなる。
入鹿の首塚は、蘇我氏の邸宅があった甘樫丘と向かい合うように佇んでいる。 pic.twitter.com/St3RmZsfAu— 山村純也|らくたび代表 (@yamamura_junya) June 12, 2021
なぜ彼女が天皇になったのか? 後継者争いの複雑な背景
舒明天皇は641年に崩御されますが、この時、皇位継承をめぐって様々な思惑が交錯していました。当時の天皇は、現代のように決まったルールで継承されるわけではなく、有力な豪族たちの話し合いによって決められることが多かったのです。そのため、豪族間の調整役としての役割が非常に重要視され、あまり若い人物が天皇になることは望ましくないとされていました。
主な後継者候補は以下の4人でした。
- 古人大兄皇子(ふるひとのおおえのおうじ): 舒明天皇の息子で、母は当時の権力者である蘇我馬子の娘、蘇我法提郎女(そがのほていのいらつめ)。蘇我入鹿にとっては叔母にあたります。
- 山背大兄王(やましろのおおえのおう): あの有名な聖徳太子(厩戸皇子)の息子。
- 軽皇子(かるのおうじ): 皇極天皇の弟。後の第36代孝徳天皇。
- 中大兄皇子(なかのおおえのおうじ): 宝女王(皇極天皇)と舒明天皇の息子。
候補の中でも特に有力視されたのは、蘇我氏と縁の深い古人大兄皇子と、聖徳太子の息子である山背大兄王でした。しかし、意見がなかなかまとまらず、このままでは豪族同士の争いが激化しかねません。そこで、当時48歳(一部資料では49歳)と円熟した年齢であり、実績も十分にあった宝女王が、一時的な「調整役」として天皇に即位することになったのです。
これが、皇極元年(642年)のことです。こうして、第35代の天皇として、史上二人目の女帝である皇極天皇が誕生しました。
皇極天皇の在位中に起こった激動の出来事
皇極天皇の在位期間は短かったものの、その間に日本の歴史を大きく動かす事件が立て続けに起こりました。最も有名なのが、「乙巳の変」、そしてそれに続く「大化の改新」です。
皇極天皇の神秘的な「雨乞い神事」
皇極天皇が即位した翌年の皇極元年(642年)、日本はひどい干ばつに見舞われました。当時の権力者であった蘇我蝦夷(そがのえみし)が雨乞いのために仏教の経典を読ませましたが、効果はありませんでした。
しかし、皇極天皇が自ら天に祈りを捧げると、なんと雷鳴が轟き、5日間にわたる大雨が降ったと伝えられています。これは、『日本書紀』に記されている出来事ですが、この出来事は、天皇の持つ神秘的な力、そして人々の信仰を集める存在としての天皇の権威を高める役割を果たしたと言えるでしょう。
山背大兄王の滅亡と蘇我入鹿の台頭
皇極天皇が即位したのは、天皇の位をめぐる争いを鎮めるためでもありましたが、残念ながらその目論見は完全には成功しませんでした。
蘇我蝦夷に代わって権力を握った彼の息子、蘇我入鹿(そがのいるか)は、自らの権力を確固たるものにするため、皇位継承の有力候補であった山背大兄王(聖徳太子の息子)を攻め滅ぼしてしまいます。
山背大兄王は一度逃れて再起を図るよう勧められますが、「これ以上の争いは望まない」として、一族もろとも自ら命を絶ってしまいます。この事件の背景には、蘇我入鹿が自らの血筋である古人大兄皇子を次期天皇にしようと考え、対立候補を排除したかったという見方があります。
現代の私たちから見れば、皇族がこのように次々と殺害されることは驚きに値しますよね。しかし、当時の天皇はまだ絶対的な権威を持っていたわけではなく、豪族たちの力が非常に強かった時代だったことがうかがえます。</
そして、この後も蘇我入鹿は何の咎めもなく、さらに権勢を振るうことになります。これは、当時の蘇我氏の力がどれほど大きかったかを示す出来事でもあります。
乙巳の変(いっしのへん)と大化の改新の幕開け
しかし、蘇我入鹿の時代も長くは続きませんでした。
皇極天皇4年(645年)6月12日、宮中で行われていた三韓(朝鮮半島の三国、高句麗・百済・新羅)の使者との儀式の最中、歴史を大きく変える事件が起こります。中大兄皇子(後の天智天皇)と、後に彼の盟友となる中臣鎌足(なかとみのかまたり)(後の藤原鎌足)が結託し、蘇我入鹿を暗殺したのです。
最初は部下が実行する予定でしたが、怖気づいてしまったため、中大兄皇子自らが刀を手に、入鹿に襲いかかったと伝えられています。倒れた入鹿は皇極天皇に助けを求めますが、天皇は身を引いてしまいます。これは、中大兄皇子たちの計画を知っていたのか、あるいはあまりの事態に動揺した結果なのか、様々な説があります。
この事件後、蘇我氏側につこうとした豪族や、中大兄皇子たちに反発する動きもありましたが、入鹿の父である蘇我蝦夷は、すべてを悟って自邸に火を放ち自害しました。こうして、長きにわたって強大な権勢を誇った蘇我本家は滅亡することになります。
この事件は、かつては「大化の改新」の始まりとされていましたが、近年では「乙巳の変」(645年に起こった干支にちなむ)と呼ばれ、その後の政治改革全体を「大化の改新」と区別して呼ぶのが一般的になっています。
乙巳の変の翌日、皇極天皇は弟の軽皇子(かるのおうじ)に譲位します。これは、日本史上初の「譲位(じょうい)」でした。軽皇子は第36代孝徳(こうとく)天皇となります。
この変の首謀者である中大兄皇子と、蘇我氏と血縁が深い古人大兄皇子は天皇に就くことができず、古人大兄皇子が出家(後に謀反の疑いで殺害)し、中大兄皇子は皇太子として、新しい政治を主導することになります。
また、この時、「大化(たいか)」という日本初の元号が定められ、これ以降の一連の政治改革が「大化の改新」と呼ばれるようになりました。その主な内容は、土地と人民を天皇の直接支配下に置く「公地公民(こうちこうみん)」、地方行政の整備である「令制国(りょうせいこく)」、土地の公平な分配と税の徴収を行う「班田収授の法(はんでんしゅうじゅのほう)」、そして「租庸調(そようちょう)」という税制度の導入などです。これらは、日本の律令国家体制の基礎を築く、非常に重要な改革でした。
この改革によって、豪族たちの連合体のような政治から、天皇を中心とした中央集権的な国家へと大きく舵が切られ、天皇の地位も、これまでの「豪族の調整役」という立場から、一歩進んだ「国家の象徴」としての性格を強めていったのです。
孝徳天皇の時代と皇極上皇(斉明天皇)の再登場
孝徳天皇が即位した「大化の改新」の時代にも、様々な出来事が起こりました。
孝徳天皇と中大兄皇子の確執
孝徳天皇の時代には、先ほど触れた古人大兄皇子が謀反を企てたとして、中大兄皇子によって攻め殺される事件が起こります。蘇我入鹿の排除といい、中大兄皇子の行動は非常に荒っぽく、冷徹な一面があったことがうかがえますね。
また、孝徳天皇は都を飛鳥から難波長柄豊碕(なにわながらとよさき)、現在の大阪に遷します。これは、新しい都を築くことで、改革の機運を高めようとしたと考えられます。
しかし、孝徳天皇と皇太子である中大兄皇子の間には、次第に亀裂が生じていました。白雉4年(653年)、中大兄皇子が都を再び大和(飛鳥)に戻すことを孝徳天皇に請願しますが、天皇はこれを許しませんでした。すると、中大兄皇子は実力行使に出てしまいます。
彼は、自身の母である皇極上皇(前の天皇)と、孝徳天皇の皇后である間人皇女(自分の妹)、そして弟たちを連れて、大和の飛鳥に戻ってしまいます。これに、多くの公卿(こうけい:高位の役人)や百官(ひゃっかん:その他の役人)も皆従って遷ってしまいました。結果として、孝徳天皇は難波に一人取り残される形になってしまいます。
このような中大兄皇子の強引で傍若無人な振る舞いは、現代の私たちから抱く「聖人君子」のような皇太子のイメージとはずいぶん異なるかもしれません。しかし、これは彼がこの激動の時代を生き抜くために、時には非情な決断も厭わなかったことを示しているとも言えます。そして、白雉5年(654年)10月、孝徳天皇は淋しく崩御されます。
#旅行行きづらいから代わりに過去に行った場所を1日1個振り返る
その145:有馬温泉(兵庫)
大己貴命と少彦名命が発見し、舒明天皇・孝徳天皇の行幸で有名になり、行基により基礎が築かれる。特に豊臣秀吉からは愛された。江戸時代の温泉番付では西の最高位の西大関になったhttps://t.co/mAysWqTjF1 pic.twitter.com/avVZ2bCBrc— にんふぇあ (@ninfea85iri) June 10, 2021
史上初の「重祚」! 斉明天皇の登場と外交政策
孝徳天皇が崩御した時、中大兄皇子はまだ30歳前後、孝徳天皇の息子である有間皇子(ありまのおうじ)は16歳と、まだ若すぎました。そこで、再び政局が不安定になることを避けるため、そして天皇の権威を保つため、驚くべきことに元皇極天皇が再び天皇の位に就くことになりました。
これが「重祚(ちょうそ)」と呼ばれるもので、日本史上初の出来事です。こうして、彼女は第37代斉明天皇として再即位しました。この時、斉明天皇はなんと62歳。当時の平均寿命を考えると、非常に高齢での再登板でした。
斉明天皇の時代は、国内の政治改革に加え、蝦夷地(東北地方)の平定や、朝鮮半島への積極的な外交・軍事政策が盛んに行われた時期でもありました。
特に朝鮮半島の情勢は緊迫しており、当時、朝鮮半島には百済、新羅、高句麗という三国が覇権を争っていました。日本(当時の倭国)は百済(くだら)と友好的な関係にあり、百済の救援に介入しますが、斉明6年(660年)に百済は新羅と唐の連合軍によって滅ぼされてしまいます。
この事態を受けて、斉明天皇は百済復興のために大規模な軍を編成し、自ら九州(筑紫)へと赴きます。しかし、そこで病に倒れ、斉明天皇7年(661年)に68歳で崩御してしまいます。彼女の死後、この遠征軍は朝鮮半島で唐・新羅連合軍と激突し、有名な白村江(はくすきのえ)の戦いへとつながっていきます。
悲劇の皇子、有間皇子の謀反
斉明天皇の治世中にも、悲しい事件が起こりました。斉明天皇4年(658年)11月、孝徳天皇の息子である有間皇子の謀反が発覚し、捕らえられて絞首刑となってしまいます。まだ19歳という若さでした。
この事件は、斉明天皇が温泉療養(湯治)に出かけている隙に、蘇我赤兄(そがのあかえ)という人物が有間皇子に近づき、斉明天皇と中大兄皇子の政治を批判して謀反を唆したとされています。
有間皇子にしてみれば、父である孝徳天皇を見捨てた中大兄皇子への反発もあったことでしょう。しかし、彼がその言葉に乗って行動を起こしたところ、逆に蘇我赤兄に密告されてしまったのです。これは、有間皇子が中大兄皇子にはめられた、という見方も強く、非常に悲劇的な事件として語り継がれています。
有間皇子が処刑される直前に詠んだとされる歌は、『万葉集』にも残されており、彼の悲痛な思いが伝わってきます。
磐代の 浜松が枝を 引き結び ま幸くあらば また還り見む
(磐代の浜辺の松の枝を結んでおこう。もし無事でいられたなら、またここに戻ってきて見よう)
家にあらば 笥に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る
(家にいれば器に盛って食べるご飯を、旅の途中であるから椎の葉に盛って食べるのだ)
皇極天皇(斉明天皇)とはどんな人だったのか?
これまで、日本の歴史上二人目の女帝であり、そして史上初めて重祚したという異例の経歴を持つ皇極天皇(斉明天皇)の生涯をたどってきました。
彼女が生きた時代は、「氏姓(しせい)制度」と呼ばれる豪族がそれぞれ独立した勢力を持つ時代から、「律令(りつりょう)制度」という天皇を中心とした中央集権国家へと、日本の政治体制が大きく変わっていく過渡期でした。まさに、日本の国家の骨格が作られた激動の時代だったのです。
その中で、皇極天皇(斉明天皇)は、時に自らの政治力を行使し、時に皇位継承をめぐる混乱を収めるための「調整役」として、重要な役割を果たしました。彼女の存在があったからこそ、中大兄皇子らが大胆な改革を進めることができた、という側面も無視できません。
特に、蘇我入鹿の排除や、孝徳天皇との確執、そして有間皇子の謀反に見られるような中大兄皇子の非情ともとれる行動は、現代の私たちが歴史上の「偉人」に対して抱くイメージとは大きく異なるかもしれません。しかし、あの混沌とした時代を生き抜き、新しい国づくりを推し進めるためには、時には冷徹な判断と実行力が必要だったのでしょう。
皇極天皇(斉明天皇)は、ただ時代に翻弄されただけでなく、その中で自らの役割を果たし、日本の国家形成に深く関わった、非常に力強く、そして魅力的な女帝であったと言えるでしょう。
最初の女帝である推古天皇についてもっと知りたい方は、こちらの記事もご覧くださいね。
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