史上初の臣下から皇后になった光明皇后の誕生のいきさつとその業績を解説します。
光明皇后は、聖武天皇とともに天平文化の象徴として考えられていますが、実際は、乱があったり、疫病が流行ったりで結構大変な時期でした。
そんな中で、聖武天皇を支えて国政にあたった光明皇后の実像に迫ります。
光明子の誕生と光明皇后までの道のり
大宝元年(701年)藤原不比等と県犬養橘三千代の間に生まれます。後に夫となる聖武天皇の母・藤原宮子は藤原不比等と加茂比売の間に生まれた藤原不比等の長女です。
聖武天皇にとっては叔母にあたります。ただし生年は同じ年になります。そんな関係ですから、臣下といえども身内のような関係になります。
幼いころは藤原不比等の屋敷で暮らしていたとも言われています。
聖武天皇とは皇太子時代に結婚しており、養老2年(718年)阿倍内親王(後の孝謙天皇)を生みます。
神亀4年(727年)基王を生みます。待望の男子誕生です。さっそく皇太子に立てますが1年後には亡くなってしまいます。
実はこの状態は非常に危ういのです。聖武天皇には安積親王がいましたが、この方には有力な後ろ盾がないので皇位には即けそうもありません。
今後、跡継ぎが生まれないとすると、当時の皇族の有力者長屋王の系統が天皇になる可能性が出てきます。
光明子の藤原四兄弟にとってはせっかく光明子を聖武天皇に嫁がせた意味が亡くなります。そんなことから長屋王の変が起こり、結果として長屋王の系統は総て排除されてしまいます。
こうして晴れて、天平元年(629年)皇族以外の身分から初めての皇后が立てられることになりました。
現代の感覚からすれば、皇后がどうしてそんなに重要なのかと思われるかもしれませんが、この頃の皇后は、天皇と同じように政治に積極的に関与することが求められています。
そんなことから、皇族以外が皇后になることには、いわばアレルギーのようなものがあるのです。
正確に言えば初めてではないのですが、初めての例は、仁徳天皇の皇后の磐之媛ということになっていますが、何しろ神話時代に近いので、ここでは初めてとしておきます。
奈良の法華寺の十一面観音像ですが、こういう仏像を載せると、カルト宗教的な人達が、反応を示すので大変迷惑をしていましたが、このお寺は、光明皇后に関わるお寺ですのでね。 pic.twitter.com/UkjYfpx6Gy
— HKanranjyu (@HKanranjyu) June 23, 2021
光明皇后と聖武天皇の治世
光明皇后は仏教に基づく政策で国の安定を図ろうとしていました。皇后宮識に悲田院と施薬院を設けます。悲田院は貧しい人や孤児を収容、救済する施設です。
施薬院は貧しい病人に対して、施薬、治療を行うための施設です。この制度は長い間続いて、室町時代まで続いたといわれています。
最初の頃の大事件は、天平9年(737年)の天然痘の大流行です。日本の人口の25~30%が亡くなったといわれています。
この時に、先の長屋の変を仕組んだ藤原四兄弟が相次いで亡くなってしまいます。光明皇后にしてはお兄さんですので大層気落ちしたのではないでしょうか。
また、同時に政府高官のかなりの方が亡くなったので、中央政府が一時機能不全に陥ることになります。長屋王の怨霊とも言われています。
天平10年(738年)聖武天皇と自分の娘になる阿倍内親王を皇太子にします。
天平12年(740年)では九州で藤原広嗣の乱がおこったり、乱の終息が見込まれたのち、伊勢国、美濃国への行幸、恭仁京、難波京、紫香楽京への遷都が行われています。
こんな頃から聖武天皇の行動が気弱で頼りない感じがしますよね。
後世では、火災、地震、疫病などの社会不安から人心を一新するためとも言われています。しかしこれでは国家が疲弊してくるのではないかと思うのですが。
天平13年(741年)には国分寺建立の詔を、天平15年(743年)には東大寺盧舎那仏の建立の詔を発出しています。これにあたっても光明皇后の発案であるとも言われています。
また、同年には墾田永年私財法が制定され、早くも律令制の一部に穴が開くことになります。
天平勝宝元年(749年)に聖武天皇は譲位して阿倍内親王は孝謙天皇として即位することになります。5人目の女帝になります。そして、聖武天皇はさっさと出家してしまいます。
ここで政治体制の刷新を図ります。皇后宮職を紫微中台と改称し、甥の藤原仲麻呂を長官にして政治にあたらせます。
天平勝宝8年(756年)天武天皇が崩御します。
そして、天平宝宇4年(760年)光明皇后が崩御します。
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光明皇后の伝説
光明皇后にはいくつかの伝説が伝わっています。このことからも、光明皇后が民衆に慕われ、行動的であったことを示しているのではないでしょうか。
施薬院での逸話
光明皇后は施薬院において千人の垢を洗い落とすことを発願していましたが、その千人目に重癩病病患者があらわれました。そして膿を吸い出すように要求したそうです。
皆がしり込みしているところ、光明皇后がその通りにしたところ、病人はだんだん光輝き、阿閦如来(あしゅくにょらい)の姿を現したとされています。
シカの子の生まれ変わり
智海上人という修行僧が尿意を催して、崖の上からしたそうです。崖の下にはメスのシカがいて、とてものどが渇いていたので、天から降ってきた水を飲んでしまいました。
そうしたところ、なんとメスのシカが人間の女の子を出産してしまったそうです。その子は近所の農家に引き取られて育てられたそうです。
ある時田植えを手伝っているときに、その子が光り輝いているのを、藤原不比等通りかかったときに見つけます。そしてその子を養女にして、光明子と名付けられたといわれています。
海龍王寺木造十一面観音立像:当寺の本尊で、光明皇后が自ら刻んだ十一面観音像を参考に、鎌倉時代に慶派仏師が制作した。奈良県にある真言律宗の寺院で、光明皇后の皇后宮の北東隅に建てられたことから隅寺の別称がある。 pic.twitter.com/1Tdi2Qa1ys
— 仏像紹介BOT (@butsuzobot) June 23, 2021
光明皇后(臣下から史上初の皇后)の誕生のいきさつと伝説のまとめ
奈良時代の天平文化真っただ中。聖武天皇の妃であった光明皇后について述べてみました。どうも調べていくと、聖武天皇は意外と気弱で病弱なことがわかります。
特に、子供が亡くなって以来、なんとなく仏教にすがってしまうことになります。それに比べて、光明皇后はもう少し現実的に政権を支えていたのではないでしょうか。
娘の孝謙天皇が即位してからもかなりの部分の国政を担っていたようです。孝謙天皇にしては、若干うるさいお母さんだったかもしれません。
しかしながら、光明皇后にこれだけの逸話が残っていることからは、おせっかいであっても案外好意を持って迎えられていたのかと思います。
長屋王の変については元正天皇の説明をご覧ください。
娘の孝謙天皇についてはこちらをご覧ください。
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